こちらの地図でおわかりのように、奈良県と大阪府の境におよそ三十五キロにわたり生駒山地が南北に連なっています。さらにその東には、生駒山地と並行してもう一つ小さな丘陵があります。矢田丘陵です。
標高三百~四百メートルの山々が連なる生駒山地に比べ(主峰生駒山は標高六四二メートルとぬきんでていますが)、矢田丘陵は二百~三百メートルの山々から成るため、圧迫感がなく優しい感じがします。矢田丘陵と生駒山地に挟まれた平群は、古代豪族平群氏の根拠地で古墳や古社寺が点在するなかなかおもしろいエリアなので、近いうちじっくり訪ねてみたいと思っていますが、奈良盆地に面した矢田丘陵の東から南側にかけた一帯にも、丘陵上には松尾寺、南麓には法隆寺…というように、古社寺が点在しています。
今日ご紹介する金剛山寺は矢田丘陵東麓の矢田町にあります。地名をとって矢田寺と呼ばれることが多いので、ここから先は矢田寺と書くことにしますが、矢田寺は天武天皇の勅願により、白鳳四年(六六四)智通によって開かれたと伝わります。(開基年については諸説あります)当初は十一面観音を御本尊としていましたが、弘仁年間(八一〇~八二四)に御本尊が地蔵菩薩になり、地蔵信仰の中心地として栄えました。
現在矢田寺といえば紫陽花の寺として有名です。
紫陽花が地蔵菩薩が手にしている宝珠に似ていることから、昭和四十年ごろから境内に紫陽花が植えられるようになり、いまではおよそ六十種類、一万株にもなりました。
取材に訪れた六月半ばはまさに紫陽花の季節。七千五百坪ほどの広い境内を色とりどりの紫陽花が埋めつくすように咲いていました。
左上に見えるのは本堂、右上は舎利堂です。創建当初は七堂伽藍四十八坊が矢田丘陵の東に点在していたといいますが、現在は境内に本堂、開山堂、閻魔堂、大師堂、舎利堂、御影堂の建物があるのみで、塔頭も大門坊、南僧坊、北僧坊、念佛院の四つです。
地蔵菩薩を御本尊とするだけあって、本堂にお祀りされている地蔵菩薩像以外に、境内のあちらこちらにお地蔵様の石像があります。左上のお地蔵様は味噌なめ地蔵と名前がつけられています。その由来を書くと長くなりますので、ここでは省略しますが、この味噌地蔵のほか汗かき地蔵、いぼ地蔵、米つき地蔵というように、通称名で呼ばれるお地蔵様が多く、地蔵信仰がいかに生活に密着したものだったかがしのばれます。
そしてこちらは丘陵中腹の起伏を利用した紫陽花園です。
高みから紫陽花を見下ろしたかと思うと、今度は背丈ほどの紫陽花の間を縫うように歩き、せせらぎの音を聞きながら濡れた小径を曲がると、その先でまた違った色の紫陽花に出迎えられる…。迷路のような紫陽花の小径は、いつしか別世界へと心を誘ってくれます。
天城甘茶、伊予時雨、富士の滝、別子手まり、三原八重…。これらはどれも紫陽花の品種名です。見本園にはこうした珍しい品種の紫陽花が植えられています。
いまは紫陽花一色の矢田寺ですが、この時期は本堂にお祀りされている御本尊の地蔵菩薩像や、通常非公開の閻魔堂がご開帳になります。
冒頭書きましたように、最初の御本尊は十一面観音像でしたが、弘仁年間に地蔵菩薩に変わっています。その際地蔵菩薩像を寺に安置したのは満米上人のようですが、この満米上人について、次のような話が伝わっています。
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昼は朝廷で官吏を、夜は冥府で閻魔大王に仕えていた小野篁は、あるとき閻魔大王から菩薩戒を受けたいと相談を受け、予てより尊崇していた矢田寺の僧・満慶を紹介したところ、大王は是非お願いしたいということで、早速篁は満慶とともに冥府に赴き、閻魔大王は菩薩戒を授けられました。
何かお礼をしたいと閻魔大王が言うと、満慶は地獄が見たいと申し出ます。そこで閻魔大王は満慶を地獄に案内し、刑罰に苦しむ罪人を見せました。そのとき満慶は、燃えさかる炎の中で生身の地蔵菩薩が亡者の身代わりとなって、地獄の責め苦を受けている姿を拝し、たいそう心を打たれます。地蔵菩薩に礼拝し教えを請うと、地蔵菩薩は「苦果を恐れるものは我に縁を結ぶべし。わが姿を一度拝し、わが名を一度唱える者は必ず救われる」とお答えになりました。
矢田寺に戻った満慶は、その教えに従い地蔵菩薩像を彫ろうとしますが、幾度試みてもその姿を再現することができず、神仏に祈願する毎日が空しく過ぎ去るばかりでした。するとある日突然四人の翁が現れ、三日三晩で地獄で出会った地蔵菩薩そのままの姿を完成させ、驚嘆する満慶に「我らは仏法守護の神である」と告げ、五色の雲に乗って春日山へ飛び去りました。
ちなみに満慶は閻魔王宮を辞する時、閻魔大王から手箱を土産として贈られました。そこには米が入っており、いくら使っても減らず、常に米に満ちていたことから、人々は満慶を満米上人と呼ぶようになったということです。
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これは矢田地蔵縁起の話で、これを図絵化した矢田地蔵縁起絵が、別院である京都の矢田寺に伝わっていますし、ここ大和の矢田寺にも「満米上人地蔵像造立」「武者所康生蘇生」「広瀬小児蘇生」の三つの説話を描いた双幅の絹本着色矢田地蔵縁起が伝わっていますが、図絵化されたことで自己を犠牲にして苦しみに寄り添い助けてくれるという地蔵菩薩の慈悲が一目でわかります。末法思想が蔓延する中世において、地獄にまで助けに来てくれる地蔵菩薩の姿は人々にとって大きな救いになったことでしょう。
参考までですが、下のカラー図版二枚は京都の矢田寺に伝わる矢田地蔵縁起絵で、左は閻魔大王が満慶を地獄に案内した場面、右は地蔵菩薩が地獄に墜ちた人を救おうとしている場面です。
またこちらは、奈良の矢田寺に伝わる双幅の絹本着色矢田地蔵縁起(非公開)です。これらの図版は「日本絵巻物全集二十九」(角川書店)から撮らせていただきました。
地獄に墜ちる恐怖と、そこからいつでも救ってくれる地蔵菩薩への信仰は、同じころ広まっていた阿弥陀信仰と表裏をなしています。
ちなみに本堂にお祀りされている御本尊の地蔵菩薩立像は、平安時代の作で像高およそ一、六メートル。左手に宝珠を乗せ、右手は胸の前で親指と人差し指を結んだ姿をされています。錫杖を持たない印相から矢田型地蔵と呼ばれています。また地蔵菩薩立像の両脇には、最初の御本尊だった十一面観音像(奈良時代)と吉祥天立像(室町時代)がお祀りされています。地蔵菩薩立像と十一面観音像は、国の重要文化財です。
またこちらは閻魔堂。閻魔大王と眷属がお祀りされています。閻魔堂をのぞくと、薄暗い堂内に迫力ある大きな閻魔大王が目をぎらりとさせ座っていました。当時の人たちの恐怖心は相当なものだったでしょう。
矢田寺は矢田丘陵の中腹にあります。帰り際、石段の先に大和盆地が見えました。