連載の岡崎で触れた大樹寺は岡崎城の北およそ三キロのところにありますが、岡崎城と大樹寺のほぼ中間あたりの伊賀町に、松平四代親忠(ちかただ)が松平家の守護神として文明二年(一四七〇)に創建した伊賀八幡宮があります。
大樹寺の創建は伊賀八幡宮の創建から五年後の文明七年(一四七五)。親忠の勢力拡大に伴い岡崎に松平家守護の聖地が造られていったことになります。
御祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后ですが、三代将軍家光の時代に東照大権現(家康)が加えられています。日光、久能山と共に、伊賀八幡宮は将軍自らが東照大権現をお祀りすることを定めた数少ない東照宮です。
伊賀八幡宮には次のような話が伝わっています。
天文四年(一五三五)織田信秀により岡崎城が攻められそうになった際、八代広忠が伊賀八幡宮に祈願して敵に対峙、先頭にいた武者が白羽の矢を敵陣に向かって放ったところ、八幡宮の上から黒雲がわき起こり、白羽の矢が雨のように敵陣に降りかかり、三万余りの敵陣は敗退したと。
また家康も出陣の際には伊賀八幡宮に祈願、関ヶ原の戦いや大阪の陣では神殿が鳴動したり鳥居が動いたりしたそうです。
現在の社殿の大部分は寛永十三年(一六三六)家光の命を受け、岡崎城主本多忠利が奉行となって幕府作事方御大工鈴木長次が造営したものですが、最初に本殿を造営したのは家康です。
ここでもう一度岡崎にある徳川家縁の場所を思い返してみると、家康が生まれた岡崎城と守護神である伊賀八幡宮、さらに松平八代の墓所である大樹寺は南北の直線上にあります。これは北辰北斗信仰に基づくもので、日光も江戸の北にあることから選ばれた地ですが、そうした信仰(思想)を背景に岡崎に根を下ろした伊賀八幡宮をより増強したのは三代将軍家光でした。家光は家康が造営した本殿に増築する形で、日光東照宮にならって権現造りとし、随神門や神橋を造ってより一層南北のラインを強調しました。(日光東照宮の建て替えと伊賀八幡宮の改修は同じ寛永十三年に落成しています)
冒頭と下の写真が随神門。神域を守る随神様が門の両側に祀られています。国の重要文化財。
こちらは拝殿。本殿、幣殿、拝殿の建物が並ぶ権現造り。こちらも国の重要文化財です。
そしてこちらの石橋が神橋。随神門手前の池は極楽浄土を表す蓮で埋めつくされています。
家康の生誕地岡崎で、徳川十五代の繁栄を支えた思想の根源を見た思いがします。