「大和の金は今井に七分」
奈良県橿原市にかつてこう言われるほど繁栄を謳歌した今井町があります。二月に投稿した大阪の富田林同様に、戦国時代の寺内町から発展した自治都市だった今井町には、いまも江戸時代のたたずまいが色濃く残っています。
東西およそ六百メートル、南北およそ三百十メートル、面積にしておよそ十七、四ヘクタールの規模の町内に千五百棟ほどの建物がありますが、そのおよそ三分の一にあたる五百棟が伝統的建造物で、その数は全国一と言われています。しかも重要文化財が九件、県指定文化財が三件、市指定文化財が五件といいますから、町全体が博物館と言っても過言ではありません。
室町時代の天文年間(一五三二~五五)、布教拠点として称念寺が建てられたのが今井町の始まりで、次第に諸国の浪人や商人が集められ寺内町を形成していきましたが、時は戦国時代、信長は一向宗と対立し各地で一向一揆が勃発、今井町も信長と対立した町の一つでした。
今井では町の周りに濠と土塁を巡らせ出入り口の門を設けたり、見通しがきかないように道を筋違いにするなど、随所に工夫を凝らした町造りがなされています。結局最後は外濠を埋めることを条件に和睦し、信長による焼き討ちを免れました。
下の写真が称念寺です。(現在改築中のため本堂には覆いがかかり拝観できません)
それ以後今井町は商業都市として大きく発展していきます。とくに江戸時代には肥料、木綿、味噌、酒といった取引や、大名相手の金融業などが盛んで、町は大変活気に溢れていました。冒頭にあげた「大和の金は今井に七分」はそうした今井の繁栄を伝えるもので、他にも「今井千軒」「海の堺、陸の今井」などとも言われました。
明治に入り衰退はしましたが、往時の町並みは見事なまでに残されています。
左上は上田家住宅。今西家、尾崎家とともに惣年寄をつとめていました。主屋は江戸時代の延享元年(一七四四)頃のもの。右上は旧米屋家住宅、米忠の屋号で金物屋を営んでいました。
左上は音村家住宅。細九の屋号で金物屋を営んでいました。時代ごとに増築されています。右上は今西家住宅。惣年取の筆頭をつとめており、城郭のような八つ棟造りと呼ばれる豪壮な建物です。
左上は豊田家住宅。幕末には大名貸しを行い藩の蔵元をつとめていた豪商で、歴代当主が収集した書画骨董などが向かいの記念館で展示されています。右上は髙木家住宅、酒造業を営んでいました。ここにご紹介した建物の中では新しい幕末期の建物です。
いまここにご紹介した称念寺と六軒の建物はすべて国の重要文化財に指定されています。建物のいくつかは見学できますが、事前連絡が必要なところもありますので、事前に調べてから行かれることをお勧めします。
今井町には観光客目当てのお店は皆無といってよく、静かな暮らしの場としてゆったりとした時間が流れています。こういう町が残っていることに驚きますが、ひとえにそれは住民の方たちの町に対する誇りと努力の賜です。
思わず町に手を合わせたくなるような、見事な町並みでした。