旧東海道吉田宿の曲尺手町の北に吉田城がありました。建物は櫓が復元された以外残っていませんが、石垣や空堀は当時の状態を留めています。現在は豊橋公園として整備され、自由に散策ができます。
こちらの地図をご覧いただくとおわかりのように、吉田城は豊川と朝倉川の合流地点に築かれています。まさに天然の堀に囲われた立地です。また吉田には様々な街道が通り、交通の要衝の地でした。そういうところに戦国時代戦乱の最前線基地として吉田城は築かれました。
少し歴史を振り返ってみましょう。
戦国時代初めの永正二年(一五〇五)頃、豊川の一色城主牧野古白によって築かれた今橋城が吉田城の始まりです。今橋が忌まわしいを連想させることから吉田に改められた話を連載の吉田で触れましたが、その際城も吉田城と改められています。
戦国時代の争乱の中、吉田城は今川氏、武田氏、松平氏(徳川氏)らと争奪戦が繰り広げられ、永禄七年(一五六四)家康により攻略され酒井忠次が城主となります。
天正十八年(一五九〇)には家康の関東移封により池田輝政が城主になります。その時代に城や城下町の整備が行われました。
吉田城址は東西一、四キロ、南北六百メートルにも及びます。これまで四十回近い発掘調査が行われました。まだ全体の三パーセントに過ぎませんが、発掘調査で縄文時代から中世にかけての遺構、遺跡が見つかっており、古墳時代前期の古墳や古代の渥美郡衙、中世の吉田宿の存在が推定されるそうです。
豊川と朝倉川の合流点に位置する高台の要衝は、古代から重要視される場所だったようです。