難波宮跡から南西に二、五キロほどのところに、生國魂神社、通称いくたまさんがあります。
現在の社殿は昭和三十一年に再建されたコンクリート造りなので、古社の雰囲気が薄いのが残念ですが、生國魂神社は日本の歴史に深く関わる重要な神社です。
社伝によると、神武天皇東征の際、難波津に到着され、上町台地北端の地に国土の平定と安泰を願い、大八洲(日本のこと)の御神霊であり、国土の守護神である生島大神と足島大神お祀りしたことに始まります。当初は現在の大阪城の北にありましたが、秀吉の大阪城築城に伴い現在地に遷されました。
神武東征は創作とはいえ、創建がかなり古い時代だったことは間違いありません。そのころ、現在の大阪城のあたりは海に突き出した上町台地の北端にあり、大和川と淀川によって運ばれてきた砂礫が堆積し、周囲の海上には大小さまざまな島が浮かんでいました。いわゆる難波の八十島です。(五世紀ごろの難波の地形については、難波宮跡の記事をご覧くださいませ)
そのような創建のいわれを持つ生國魂神社でお祀りされている生島大神と足島大神は、現在も宮中の神殿でお祀りされています。
『延喜式』巻第九に「神祇官西院坐御巫等祭神廿三坐」という項目があり、そこに二十三の神々が記されています。皇室の神というと伊勢神宮を思いますが、その二十三の神々は宮中でお祀りされている最高の神々だそうで、そこに生島大神と足島大神も入っているのです。
平安時代に書かれた『先代旧事本紀』や『古語拾遺』によると、生島大神と足島大神は「大八洲之霊也」、つまり日本全体の国魂でした。
また「神祇官西院坐御巫等祭神廿三坐」には、難波宮跡の西二、五キロほどのところに鎮座している坐摩神社の神様の名前も見えます。ちなみに、坐摩神社も生國魂神社同様、創建当初大阪城の北にありましたが、大阪城築城によって現在地に遷っています。
宮中ではこうした神々に専属の巫女をつけお祈りをしたのですが、難波の上町台地にお祀りされている神々をそこまで手厚くお祀りしたところに、天皇家と難波の深い関係がうかがえます。
先日難波宮跡について投稿しました。前期難波宮は孝徳天皇の時代のものですが、難波はもっとそれ以前から日本の歴史に深く関係してきたと書いた、その一端がここに垣間見えるようです。
写真には写っていませんが、本殿と幣殿を一つの流造で葺きおろし、 正面に千鳥破風、すがり唐破風、千鳥破風の三つの破風を据えた生国魂造という他に類を見ない特殊な社殿を擁しています。
境内には皇大神宮、住吉神社、城方向八幡宮、鞴神社、家造祖神社、浄瑠璃神社、鴫野神社など十一の摂社が鎮座しています。
本殿の神様だけでも十分すぎるほどの御神徳をお持ちですから、すべてお詣りしたらどれほどのご利益があるのでしょう。右上の写真は鴫野神社。淀君が篤い信仰を寄せた神社で女性の守護神としてご利益があるというので、私もしっかりお詣りしてまいりました。
ちなみに江戸時代の生國魂神社は、上方文化の中心地でした。
寛文十三年(一六七三)には井原西鶴が俳人二百人を集め、境内で大規模な万句興行を主宰、延宝八年(一六八〇)には境内の南坊で一昼夜四千句の独吟矢数俳諧の新記録を樹立しています。
また米澤彦八は京都の露五郎兵衛とともに境内で聴衆を前に口演、これが落語の始まりです。
境内には浄瑠璃神社がありますが、近松門左衛門は生國魂神社を「曽根崎心中」の舞台に仕立てています。
境内には西鶴の座像や米澤彦八の碑などが点在、当時の歴史を伝えています。
境内から一歩外に出ると、そこはビルが建ち並ぶ大都会大阪。その街並みに難波の歴史を伝える風景は見当たりません。だからこそ神社の存在が大切だと思います。