東海道は連尺の交差点を左折し南に向かいますが、右折し北に四百メートルほど行ったところに浜松城があります。
浜松城の前身は戦国時代の永正年間に今川氏によって築かれたと言われている曳馬城でした。
桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られてから十年後の元亀元年(一五七〇)、徳川家康は武田信玄による侵攻に備え、岡崎城から遠江に拠点を移すことにしました。当初は前回の連載で取り上げた見付に城を構えるつもりでしたが、見付の西には天竜川があり攻め込まれた際不利になることから、三方原台地にある曳馬城に着目、城を西南方向に拡張整備して浜松城としました。家康二十九歳のときのことです。
家康が浜松城を拠点としたのは天正十二年(一五八四)、四十三歳までの十七年間で、まさに青壮年時代を浜松で過ごしたことになりますが、その間に姉川の合戦、三方原の合戦、高天神城の攻略、小牧・長久手の戦いなど名だたる戦が起きています。
中でも、武田信玄と織田・徳川軍が三方原で激突した三方原の合戦は関ヶ原の合戦を上回る激戦だったらしく、家臣に化けて命からがら浜松に逃げ帰ったと言われていますが、こうした浜松時代の試練が後に天下を統一する礎になったのでしょう。
家康が浜松から駿府に移った後、浜松城には徳川にゆかりの譜代大名たちが入りました。その中には幕府の要職に就いた者が多かったことから、浜松城は出世城と呼ばれるようになりましたが、ここも明治の廃城令で野面積みの石垣を残して取り壊されてしまいました。
ですので、冒頭の写真の天守閣は昭和三十三年(一九五八)に再建されたもの、現在は資料館になっています。
それにしても、野面積みの石垣の見事なこと。浜名湖北岸の山々の石が使われているそうです。石垣に見入っていたら、どこからかリスがやってきて、荒々しい石垣を難なく登っていきました。