ねがわくは花のもとにて春死なむ その如月の望月のころ 西行
大阪府の南東、奈良県との境に聳える葛城山に潜り込んだような弘川の地に、西行終焉の地として知られる弘川寺があります。
如月の望月のころとは、二月十五日の満月の日、太陽暦では三月の末に当たります。空寂上人を慕って弘川寺を訪ねた西行は、一年ほどの庵居の後、文治六年(建久元年 一一九〇)二月十六日、弘川寺で没しました。享年七三。歌に込めた通りの最期でした。
いつか弘川寺を訪ねたい、できれば桜の季節に。そう思い続けて何年になるでしょうか。東西の移動が多く、決して長くはない桜の時期にタイミングを合わせることは難しく、弘川寺まで足を延ばすことはできずにいましたが、ようやく今年願いが叶いました。
弘川寺は天智天皇四年(六六五)役行者によって開かれたと伝わります。天武天皇の時代に勅命で請雨の祈りを捧げたところ、験著しかったことから弘川寺の名を賜り勅願寺となりました。さらに天平九年(七三七)には行基がここで練行、弘仁三年(八一二)空海によって中興された古刹です。
このように歴史あるお寺ですが、戦国時代に河内国の守護畠山氏による兄弟争いの戦火に遭い、堂宇を焼失しています。現在弘川寺にある建物で最も古いのは、下の鎮守堂。桃山時代のものです。
ところで、弘川寺で西行の墳墓を見いだしたのは、江戸時代の歌僧の似雲です。西行を慕い諸国を巡っていた似雲は、『五畿内志』の作者並河誠所から、西行終焉の地は藤原俊成の歌集より河内の弘川寺だと教えられ、享保十七年(一七三二)に西行の墳墓を発見、延享元年(一七四四)に西行坐像をお祀りする西行堂を建てました。
本堂後ろの階段を上っていくと、西行堂があります。
そこからさらに山の上に進むと、西行塚があります。塚の近くには、冒頭引用した西行の歌碑。
また西行塚から背後の山に通じる道の手前には、似雲の墓があります。似雲は西行塚を発見すると、周辺の山に桜を植え、そこに花の庵を建てて住みながら西行堂を建立、生涯を西行に捧げました。
そのおかげで、いまお寺の背後の山は桜で埋め尽くされんばかりです。その山は桜山というそうです。
仏には桜の花を奉れ わが後の世を人とぶらはば 西行
西行は死後も自分の願い通りになっているような気がします。
なお、本坊の庭園も見事です。桜が終わると、今度は天然記念物の海棠が見頃を迎えます。弘川寺の海棠は樹齢およそ三百五十年、日本一の老樹だそうです。
庭園奥にある西行記念館には西行や似雲にゆかりの品や、弘川寺を訪れた文人墨客の品などが展示されています。(春と秋のみ公開)流れるような西行の字に見とれました。