掛川城から古城跡に向かおうと歩いていたら、現在の掛川城の東に建つ趣ある建物に眼が留まりました。
江戸時代の農政家、二宮尊徳の報徳の教えを広めるための全国組織の本社、大日本報徳社です。
二宮尊徳、通称金次郎は、江戸時代後期の天明七年(一七八七)相模国足柄上郡栢山(現在の小田原市栢山)の農家の長男として生まれますが、少年期に両親を失い、災害で没落した家を独力で再興しました。この体験と独学で学んだ神道、仏教、儒教などの教えから、経済と道徳の融和を訴え、「至誠」「勤労」「分度」「推譲」を行っていくことで、初めて物質的にも精神的にも豊かに暮らすことができるという「報徳思想」を形成しました。
「至誠」とはまごころを持って事にあたること。
「勤労」とは大きな目標に向かって行動を起こす際も、小さなことから慎ましく勤めなければならないということ。
「分度」とは、自分の置かれた位置や立場をわきまえ、それぞれにふさわしい生活をすることが大切だということ。
「推譲」とは将来に向けて生活の中で余ったお金を家族や子孫のために貯めておいたり(自譲)、他人や社会のために譲る(他譲)こと。
つまり金次郎は自分の利益や幸福を追求するだけの生活ではなく、この世のものすべてに感謝して、これに報いる行動をとることが大切で、それが社会と自分のためになるということを説いたのです。
報徳思想は、幕末期に難村復旧、家政立て直しのため相模、下野、遠江などに広まりを見せます。そうした中、掛川では、高弟・岡田佐平治が熱心に活動し、息子の良一郎が明治八年(一八七五)遠江報徳社を設立、明治四十四年(一九一一)大日本報徳社と改称し、全国の報徳社の中心組織になりました。
冒頭の写真は正門で、石の門柱は明治四十二年(一九〇九)に建てられたものです。
こちらは大講堂。報徳運動の拠点として明治三十六年(一九〇三)に建てられました。瓦屋根に漆喰壁、洋風の丸みのある窓が特徴的な建物は、屈指の大規模近代和風建築、国の重要文化財に指定されています。建物内の見学もできます。
上の写真は仰徳記念館。明治十七年(一八八四)に東京の霞ヶ関に有栖川宮邸として建てられた建物の一部が、昭和十三年(一九三八)に宮内庁から下賜、移築されたものです。
こちらは二代目岡田良一郎の遺徳を記念して、昭和二年(一九二七)に建てられた図書館です。
報徳思想は渋沢栄一、安田善次郎、豊田佐吉、松下幸之助、土光敏夫といった名だたる経済人たちにも大きな影響を与えました。いまもそこから学ぶものは多いような気がします。
ちなみに掛川信用金庫は、岡田良一郎が明治十二年(一八七九)に設立した勧業資金積立組合「資産金貸付所」が元になっています。明治二十五年(一八九二)に掛川信用組合に改組、これは日本で最初の信用組合なのだそうです。