金谷の石畳道を上り一息ついたあたりに、諏訪原城跡を示す案内表示が立っています。
往路では行きそびれてしまったので、復路で立ち寄りました。
永禄十二年(一五六九)武田信玄が遠江侵攻の拠点として、牧ノ原台地の北に築いた砦が諏訪原城の始まりと言われています。その後信玄の子の勝頼が家康を牽制するため、天正元年(一五七三)馬場美濃守信房に命じて造らせた本格的な城が、この諏訪原城です。
諏訪原という名前は、武田氏の守護神である諏訪明神をお祀りしたことに由来しています。
天正二年(一五七四)武田勝頼は、早速この諏訪原城を遠江攻略の拠点とし、家康の高天神城を包囲して開城せしめていますが、翌天正三年三河の長篠で織田・徳川連合軍に大敗を喫し、その後諏訪原城は家康の手に落ちました。
家康はこの城を牧野城と改名し、縄張りの基本は武田時代のものを受け継ぎながらも、堀や丸馬出しを増強したり、大手曲輪を築くなど、より東海道に近接した縄張りに改修しています。
ちなみに牧野という名は、周の武王が殷の帝辛を牧野(中国の地名)で破ったという古代中国の故事に由来するようです。
城を奪われた武田軍は牧野城を奪還すべく徳川軍と交戦しますが、天正十年(一五八二)武田氏は滅亡、存在意義が薄れたことから城も廃城となりました。
明治になると旧幕臣たちが周辺を開墾、現在城の周りは茶畑になっていますが、堀や曲輪が比較的残っていることから、昭和五十年(一九七五)に国の史跡に指定されました。
いまは茶畑に囲まれたこの東海道を、戦国時代武田氏や徳川氏が行き交い、ここで一線を交えた…。そういう場所を歩いていると思うと、急坂の道のりの苦労も消えるというものです。