金谷宿だった商店街を過ぎJRの高架をくぐると、旧東海道は急な上り坂になります。
途中でふと右を見ると、中山新道と書かれた小さな表示があり、その先に道が延びています。
中山新道は明治に入り増大する交通量に対応すべく、険しい峠道(小夜の中山峠)を通らず金谷と日坂を行き来できるようにと開かれた道で、旧国道一号線はこれが元になっているそうです。新道の開通は明治十三年(一八八〇)。これも苦労の末に開かれた道でした。
茶の生産が軌道に乗ってくると、運搬する茶の量も増え、大八車が通れる道の建設が急務になりました。ところが資金繰りが苦しい新政府は、道路整備にまで手が回りません。そこで個人が自らの資金で道や橋を造った場合は、通行料を徴収してよいということになりました。
そのとき立ち上がったのが金谷生まれの杉本権蔵です。
権蔵は静岡の富豪たちに資金提供を募り、工事に着手、着工からおよそ七ヶ月後に新道が完成しました。距離はわずか六、七キロですが、人力で山を切り開いて道を造る作業は苦労の連続でした。
完成した中山新道は東海道の小夜の中山峠よりも楽だったことから大いに利用され、一日に千人近くが通ることもありましたが、明治二十二年(一八八九)に東海道本線が全線開通すると、中山新道の利用者は激減し、維持が困難になってしまいます。
結局新道は国道になり、未償却分は杉本権蔵の孫と出資者で負担したといいますから、なんとも胸の痛む話です。
中山新道の表示は地味で目立たちません。目の前の急坂に気を取られていたら見過ごしたかもしれませんが、ここにも時代の変革がもたらした光と影があったのです。