戦国時代末期、浄土真宗教団によって畿内を中心とした各地に寺内町が形成されました。寺内町というのは、お寺を中心に土塁や濠などで囲われた中に、信者や商工業者が集住し、大名や領主の干渉を廃し自治を確立していった宗教自治都市のことで、大坂石山(石山本願寺)や八尾市の久宝寺、高槻市の富田、奈良県橿原市の今井町などがあります。
寺内町といっても形成過程はそれぞれで、たとえば石山本願寺の寺内町である大坂や山科本願寺の山科は教団主導型、久宝寺や今井町は有力領主主導型でしたが、ここでご紹介する富田林の主導者は住民たちでした。
永禄年間の初め頃(一五六〇前後)、京都興正寺第十六世の証秀上人が「荒芝地」と呼ばれていた富田の荒れ地を購入すると、そこに興正寺別院の御堂を建立、周辺の四つの村の有力者八名、いわゆる富田林八人衆が中心となり寺内町が造られました。寺内町が造られた場所は、大和川の支流石川に沿った河岸段丘上。高台の要害の土地でした。八人衆は町を戦乱から守るため、天然の要害の地だった町を土塁で囲んでさらに防備を固め、町の出入り口四カ所には門が設けられました。
六筋七町(後に六筋八町)の整然とした町割りで、興正寺を中心に住宅や畑などが計画的に配され、八人衆により諸税の免除などの特権を得たことで、寺内町は発展していきます。
元亀元年(一五七〇)から十年にわたって繰り広げられた石山の合戦(本願寺勢力と信長の戦い)の際には、富田林は本願寺に軍事的援助はせず、信長に「寺内別条なき」との安堵を保証させ、戦禍を免れています。
江戸時代になると、富田林は一大商業都市として発展していきます。すぐ近くを流れる石川や東高野街道が、富田林と各地を結ぶ物流の道になったのです。取引されたものは、米や菜種、綿など。江戸や長崎などとも交易していた記録が残っているそうです。
富田林には、こうした町の歴史を伝える建物が多数残っています。富田林の寺内町は東西四百メートル、南北三百五十メートル。六百軒ほどある町屋のうち、二百五十軒が伝統的な町屋建築というだけあり、足を踏み入れたとたん路の両側に続く風格漂う町屋風景に目を奪われ、シャッターを押す手が止まりません。
以前久宝寺を訪ねたことがあります。久宝寺もお寺の周辺に寺内町らしい風景が残っていますが、規模の点では富田林はその比ではありません。路地という路地、どこを歩いても足を留め、目を凝らしたくなる風景が残っていますし、何よりすばらしいのは、そこが現在も人々が暮らす生きた町であるということです。観光のために整備復元された町ではありません。住民の手によって造られた寺内町が、それぞれの時代を経て受け継がれ、現代に至ってもその景観が壊されることなく生活と密接に結びついて存在しているのが富田林です。
見所が多くすべてをご紹介することができませんが、その一端でもご覧いただけたらと思います。
下の写真は寺内町の中心にある興正寺別院です。表門は伏見桃山城の城門を移築したもの、鐘楼と鼓楼は江戸時代の文化年間、本堂は寛永年間の再建と伝わります。創建当時の建物は残っていませんが、真宗道場形式の本堂としては大阪府下最古、寺内町の中心で格調高い雰囲気を放っています。
興正寺のある南北の筋を城之門筋といいます。城門を移築したことに由来する名前ですが、この城之門筋のあたりに江戸から大正までの建物が最もよく残っています。たとえば左下の写真、道の両側に見えるのは江戸時代の奥谷家住宅。右下は代々木綿屋を営んでいた田守家住宅、江戸時代の建物です。
左下は木口家住宅、当初木綿屋を営んでいましたが、四代目から瀬戸物商になったようです。建物は一八世紀中頃の建築。右下は呉服商だった中井家住宅です。
冒頭の写真に写っている三階建ての蔵は、城之門筋より一本西の富筋にある葛原家のもの。葛原家は奈良県十津川の出で、富田林では酒屋を営んでいたようです。
左上の写真は、城之門筋ですが、交差する道が少しずれているのがおわかりいただけるでしょうか。これは「あて曲げ」といい、わざと見通しを悪くして町を守る工夫の名残です。寺内町を歩いていると、あちらこちらの四辻であて曲げを目にします。右上の階段は寺内町への出入り口の一つで石垣は寺内町を囲っていた土居の名残です。富田林にはこうした出入り口が十二カ所ありました。
小さな町を二時間近く行ったり来たりしたでしょうか。
保育園の園児たちがこうした風景の中を散歩しているかと思えば、買い物帰りのおばあさんが自転車で路地を走り抜けていく…。狭い路地で鉢合わせになった車が苦労してすれ違っていったかと思えば、別の場所では運悪く事故を起こしてしまい警官が事情を聞いている…。どこからともなく集まってくる猫たち。日向ぼっこかしらと思っていると、とある家からおばあさんが餌を持って出てくる…。
寺内町には普段と変わらない日常が流れていました。