先日鉄舟寺について投稿しました。鉄舟寺の前身は久能寺といい、久能山にありましたが、江戸時代になると東照宮が建てられ、現在久能山といえば東照宮をさすほどになっています。東海道から足を延ばし、東照宮を訪ねてみました。
久能寺時代からの歴史を簡単に振り返ってみますと、平安時代末から鎌倉時代にかけて、久能寺は多くの僧坊を持ち繁栄を極めましたが、戦国時代に武田信玄が山上に城を築くため、寺は現在鉄舟寺がある場所に移されたことにより、久能山は信仰の山から要害の地へと変わりました。
武田氏滅亡後、城は徳川家康に引き継がれます。家康は駿府にいた大御所時代、「久能城を駿府城の本丸と思う」と述べたというように久能山を重視し、自分の死後は久能山に葬るようにと遺言しました。
なぜ久能山だったのでしょうか。ここが駿府の出城だったからとか、西を鎮めるためとか諸説ありますが、ここが古くから信仰の場だったということもあったかもしれません。
久能山にあった久能寺は山号を補陀落山といったように、久能山は補陀落信仰の場として捉えられていたと考えられます。補陀落とは梵語のPotalakaで、観音菩薩が降臨する霊地のことです。日本では中世になると補陀落渡海といって、観音浄土を目指し船で海に出る捨て身の業が行われましたが、駿河湾に面した久能山の立地は補陀落への出発地として捉えられていたでしょうし、山自体が補陀落であったかもしれません。観音浄土に行きたいという願いが、久能山を選ばせたということもあったのではないでしょうか。
元和二年(一六一六)家康が亡くなると、亡骸は遺命によって久能山に埋葬され、二代将軍秀忠によって久能山東照宮が建立されました。現在久能山といえば久能山東照宮をさすほど、山上に多くの社殿を擁しています。
ちなみに久能山は駿河湾に面する有度山の一部で、長い年月浸食によって切り離され、孤立した山のようになりました。北側の平らなところが日本平で、日本平と久能山はロープウェイで結ばれています。
ロープウェイから駿河湾の風景を目にしながら、さっそく久能山東照宮へ。
本来なら海沿いを走る久能街道から、長い長い石段の表参道を歩いてお詣りするべきですが、私は日本平からロープウェイで久能山に行ったので、すぐに楼門(左下の写真)前に出ます。国の重要文化財。後水尾天皇の宸筆「東照大権現」の扁額が掲げられています。楼門の先には大きな青銅の鳥居がそびえ、その先に家康をお祀りする御社殿が見えます。
こちらが元和三年(一六一七)建立の御社殿。本殿と拝殿を石の間で連結した権現造りは、江戸幕府大工棟梁中井正清の代表的な遺構の一つです。権現造りの社殿が各地に普及する契機となった最古の東照宮として、平成二十二年に国宝に指定されています。
とにもかくにも、存在感に圧倒されます。総漆塗りで極彩色、豪華絢爛な装飾は実に見事。次第に頭がくらくらしてきますが、気を取り直してさらに奥へ。
廟門(写真左上)をくぐり、さらに石段を上がった先にあるのが神廟(写真右上)。家康はここに眠っています。御社殿周辺とは異なる厳粛な雰囲気。人の姿もほとんどありません。
創建当初は木造檜皮葺の小さな祠でしたが、家光によって現在のような高さ五メートルを超す石造宝塔に造り替えられたそうです。
家康の遺命により、神廟は西を向いています。京都の朝廷や豊臣家の残党のいる西に対してにらみをきかせるためという説や、西には松平家の菩提寺である岡崎の大樹寺があり、家康が生まれた岡崎城もあることから、先祖への敬意ではないかという説もあります。
ちなみに、家康の亡骸は一周忌が過ぎた後、日光の東照宮に改葬されていることから、家康が眠っているのは日光だと思われている方が多いのではないでしょうか。もちろん私もそうでしたが、実際に遺体が移された確証はないそうです。
あればある無ければなしと駿河なる くのなき神の宮うつしかな
これは改葬を取り仕切った天海僧正の歌ですが、「くのなき」は当地では「軀」つまり亡骸で、このあたりでは「亡骸のない神様を遷した」と解釈されているようです。
久能山でも日光でも発掘調査は行われていませんので、家康が実際どちらに眠っているのかはわかりません。
東海道を歩いていくと、この先の府中、岡崎などで家康の足跡に触れることになりますが、そのたびに家康がいかに駿河国を、この久能山を愛していたかということを痛感させられました。ですので、家康には久能山に眠っていてほしいと個人的には思っています。
神廟にたたずんでいると、音もなく巫女さんが現れ、丁寧に祈りを捧げると、また帰っていきました。