江尻で清水次郎長の足跡を追いました。次郎長は知れば知るほど味があり、東海道を歩いたことで次郎長に対して抱いていたイメージがすっかり変わってしまいましたが、次郎長といえば山岡鉄舟の存在を抜きには語れません。二人の関係については、「歩いて旅した東海道 由比」や「江尻」で簡単ですが触れましたので、ご興味ありましたらお読みいただけたらと思いますが、何を隠そう、私は鉄舟の気概に惹かれておりまして…。
それはともかく、鉄舟にゆかりのお寺が次郎長生家跡から南西に一キロほどのところにあると知り、訪ねてみました。
鉄舟寺は、飛鳥時代久能忠仁により久能山に創建された久能寺に始まります。「久能寺縁起」によると、千手観音が夢枕に現れ、自分は補陀落浄土の主で衆生救済のために現れたと告げたことから、補陀落山久能山が創建されました。ちなみに久能山は有度丘陵の南が浸食されて出来た山で、屏風谷を隔てて北に日本平が続いています。こちらをご覧いただくと様子がよくわかります。
平安時代には多くの僧坊を持つ大寺院に発展、とくに平安後期から鎌倉にかけては三百六十坊の規模を誇りました。奈良時代には行基が、平安時代には最澄が訪問、鎌倉時代には源頼朝から寺領を寄進されています。
ところが鎌倉時代中頃に起きた山火事で被害を被り、さらに戦国時代には武田信玄が今川氏攻略のために久能山に城を築くことになり、寺は山麓に移されました。それが現在鉄舟寺がある場所です。
江戸時代には徳川幕府から御朱印を賜り、僧坊の数を増やしましたが、時代が明治に変わると寺は無住となり荒廃していったというように、波瀾万丈ともいえる浮き沈みの激しい歴史を抱いています。
明治十六年(一八八三)、廃寺となった久能寺を再興させようと立ち上がった人物がいました。
それが山岡鉄舟です。
鉄舟は募金のために書を揮毫するとそれを次郎長に託し、託された次郎長は資金集めに奔走しますが、鉄舟は寺の再興を見ることなく、明治二十一年(一八八八)に亡くなってしまいました。
その後清水の魚商柴野栄七翁が鉄舟の意志を受け継ぎ、明治四十三年(一九一〇)に寺が完成、鉄舟寺と改められ今日に至っています。
久能寺時代の歴史を伝える寺宝に、平家納経とともに装飾経の最高峰とされる久能寺経があります。これは永治元年(一一四一)鳥羽上皇の出家に際し、法華経二十八品に無量義経と観普賢経を加えた三十巻を書写したもので、鳥羽上皇の離宮の一部だった安楽寿院(京都の伏見区竹田)に置かれていましたが、いつのころか久能寺にもたらされました。京の戦乱を避けるためだったのでしょうか。移された理由はわかりませんが、それだけ久能寺は東海道の名刹として名をとどろかせていたということなのでしょう。あいにく明治維新後の荒廃で一部が散逸してしまいましたが、鉄舟の尽力で十九巻が保存されることになり国宝に指定されています。
剣の達人だった鉄舟は、剣の心として禅の修行を重視し、三島の龍沢寺に参禅し教えを受けていました。若者たちの精神修養の場として久能寺に白羽の矢が立ったということのようですが、それ以前に久能寺の持つ歴史への敬意と寺の再興への正義感のようなものがあったのではとも思います。
鉄舟とのそうした縁から、寺には鉄舟の書が多く伝わっています。
山裾に食い込むように立つ鉄舟寺。石段を下りながらふと顔を上げると、屋根の向こうに富士山が見えました。