田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける
この歌が詠まれた当時の田子の浦は、現在の田子の浦港より西の、蒲原から薩埵峠の麓あたりまでを指していました。同じ田子の浦でも昔と今とでは違うのですが、現在の田子の浦の様子も気になります。
JR吉原駅から南西に五百メートルほどのところにある「富士と港の見える公園」は、その名の通り田子の浦港と富士山が見える公園。さっそく向かいました。
沼川と潤井川が注ぐ港は、現在ご覧のように富士市の産業を支える工業港になっています。昭和三十年代から四十年代にかけて、ヘドロ公害で有名になってしまいましたが、現在港の環境は改善されているといいます。
製紙工場の煙突やこの港の風景が、ありのままの現在の吉原です。
さて公園を歩いていたら、このような石標に眼が留まりました。「見付宿跡」とあります。
「歩いて旅した東海道 吉原」で、江戸時代の吉原宿は高潮や津波の被害で三回宿場を移転したと書きましたが、ここは最初に宿場が置かれた場所だったのです。
さらに公園を歩いていると、阿字神社の里宮と奥宮を見つけました。(下の写真は奥宮です)
三股淵(現田子の浦港)の毒蛇に人身御供として身を捧げ、人々の難儀を救おうとした少女阿字と、善竜と化した八大竜王をこの地を守る水徳の神として祀った神社です。三股淵というのは、沼川、和田川、潤井川が流れ込んでいたことからそう呼ばれていました。
東海道をこの先歩いていくと、見付宿というのがあります。そこの見附天神にも人身御供伝説がありますし、先日投稿した浮島沼にも同様の話が伝わってるように、静岡県は人身御供伝説が多い地域のようですが、そもそも人身御供は自然現象の脅威に対する崇敬の念から来ていますので、それだけ静岡県には山や河川など、人々の生活をときに脅かし、畏怖の対象となってきた自然が豊かだったということでしょう。