今から一万年以上前、駿河湾の海岸線は愛鷹山の麓にありましたが、長い年月をかけ、愛鷹山や富士川、狩野川などから砂礫が流入・堆積し、広大な潟湖が形成されました。
潟湖は、その後小河川からの土砂の流入堆積によって埋め立てられ、規模が縮小して沼になりました。
その沼はさらに年月を経て湿地帯になっていきました。沼を含む湿地帯を浮島ヶ原といいます。東西約十三キロ、南北約二キロの広大な湿地で、そこから富士山がよく見えるとあって、江戸時代は風光明媚な場所として知られました。
広重の保永堂版原宿も浮島が原から見える富士山の風景。画面からはみ出るほど大きな富士山が印象に残る一枚です。
浮島ヶ原では鮒や鰻、蜆などがよく獲れましたが、農業に関しては洪水や逆潮の被害にたびたび遭い、苦労の連続でした。
江戸末期、水害に苦しむ原を救おうと、浮島沼の大干拓に尽力したのが増田平四郎です。
干拓の計画に対し、徳川幕府がなかなか許可を出さなかったため、計画の立案から着工まで二十七年もの歳月を要しましたが、明治二年(一八六九)ついに大排水路が完成します。ところが完成まもなく高潮で崩壊、三十年近い努力が潰えました。
その後も干拓事業は行われ、平四郎が造った水路跡には昭和放水路が出来ました。農地改良のためのさまざまな取り組みの結果、昭和四十年以降は湿田は姿を消しましたが、同時に湿原も少なくなっていきました。
浮島ヶ原は沼、水路、湿性草地といった湿原環境だったので、そこに生息する植物も多種多様でしたし、野鳥にとっても格好の場所でした。
農業の発展と自然環境の維持を両立させるのは難しいことです。
東田子の浦駅の北三百メートルほどのところにある浮島ヶ原自然公園が、かつての浮島ヶ原の残存です。七年前に整備された公園で、人工的な感じは否めませんが、サワトラノオやヒキノカサ、ノウルシといった貴重な植物が生息しています。