小田原は宿場町でしたが、同時に小田原城の城下町でもありました。
小田原城は旧東海道の北およそ四百メートルのところにあります。江戸時代なら旧東海道から天守閣が見えたのでしょうが、現在は旧東海道を歩いていても建物に視界を遮られ、小田原城の存在を感じることができません。ならばと、旧東海道を逸れ、小田原城に足を延ばしてみました。
平成の大改修を終えたばかりの真新しい天守閣が青い空によく映えます。再建は昭和三十五年(一九六〇)ですが、この城の始まりは平安時代の末、相模国の土豪土肥氏一族の居館に遡ると言われています。
その後時代は戦国時代へと突入。室町時代の応永二十四年(一四一七)、関東公方足利持氏によって小田原周辺の領地が駿河の大森頼春に与えられ、享徳三年(一四五四)大森実頼の代に城が築かれますが、明応四年(一四九五)伊豆韮山の伊勢宗瑞(北条早雲)が大森氏を退け、小田原に入ると、以後後北条氏は五代百年にわたり小田原城を拠点として勢力を伸ばしていきました。
小田原城は東に酒匂川、西には箱根の連山、北は丘陵、南は海と、立地の面でも有利で、難攻不落の城として名をとどろかせましたが、豊臣秀吉による小田原攻めでついに落城、後北条氏は滅びました。といっても、秀吉は小田原沖に海を埋め尽くすほどの船を並べて海上を封鎖し、石垣山の一夜城に籠もって静観することで、小田原城を無血開城させています。武力によって攻め込まれることはなかったという点で、やはり小田原城は堅牢な城でした。
後北条氏滅亡後は、徳川家康に従って小田原攻めに参戦した大久保氏が城主となり、規模を縮小して近世城郭の姿に改修されました。
江戸時代、小田原城には様々な建物がありましたが、明治に入って廃城となり解体されたことに加え、関東大震災で石垣までもが破壊され、跡形もなくなってしまいました。大規模な発掘調査をしたり、古文書・絵図などを研究したりして、少しずつ往古の姿が復元されつつあります。
江戸時代の壮大な城が復元されるのは楽しみですが、小田原城の本当のすごさは後北条氏時代にあります。
秀吉の小田原攻めに備えるべく、後北条氏は全長九キロにも及ぶ総構を築きました。その規模は戦国時代最大とも言われています。
高低差が十メートル以上もある空堀も残っています。今回はそちらまで足を延ばせませんでしたが、是非いつか総構に沿って小田原を歩いてみたいと思っています。
ちなみにこちらは復元された天守閣からの眺めです。下の写真左は丹沢方面、右は箱根方面です。
高いところから眺めると、箱根がより一層間近に感じられます。小田原の次はいよいよ箱根の峠越えです。