いまから三百年以上昔のこと。
座頭の沢市は目が見えませんでしたが、妻のお里と仲睦まじく暮らしていました。
ところがあるとき、お里が明け方になると黙って外出することに気づき、沢市はお里に他に好きな男ができたのではないかと疑いを抱きます。問い詰めると、お里は「沢市の眼が見えるようになりますように」と、毎日欠かさず山中にある壺坂寺の観音様のところへ祈願に行っていたことがわかりました。
邪推を恥じた沢市はお里とともに観音参りを始めますが、「お参りしたところで眼は見えるようにはならぬ。これ以上お里に迷惑はかけられない」と、自ら命を絶つことを決意し、お里のいない隙に深い谷底へ身を投げてしまいました。
そこへお里が戻ってきますが、沢市の姿はありません。探し回るうち、谷底に沢市を見つけ、嘆き悲しんだお里も後を追って身を投げるのでした。
しかしその後、観音様の霊験により奇跡が起こり、沢市とお里は一命を取り留め、沢市の眼も見えるようになりました。
壺阪寺の名を近世知らしめたのは、明治時代に作られた浄瑠璃『壺坂霊験記』(上がその粗筋です)ですが、壺坂寺は飛鳥時代の大宝三年(七〇三)、法相大徳弁基上人によって開かれたと伝わり、正式には南法華寺という真言宗のお寺です。西国三十三所第六番札所にもなったことから、古くから観音霊場として多くの参拝者が訪れています。
飛鳥から吉野に向かって南下すると、やがて高取町の山道に入っていきます。都のおかれていた飛鳥から、離宮のあった吉野川沿いに行くために利用された壺坂峠の道で、壺坂寺はその峠道の途中にあります。標高は三百六十メートルほど。私は楽をして車で行きましたが、昔の人はこの薄暗く勾配のきつい道を歩いて登り、壺坂寺に詣でたのです。
作り話ではありますが、『壺坂霊験記』のお里も、まだ暗いうちに山道を歩いて観音様に祈りを捧げたのですから、信仰の力は本当に大きいものです。
創建当時、境内には三十六堂六十余坊の大伽藍があったといいますから、その力もまた驚くべきものです。あいにく四度の火災で焼失し、現在の建物は文政十年(一八二七)に建立されていますが、それでも一番上の写真でおわかりのように、山を背にいくつもの建物がひしめいています。
こちらの左側の写真に写っているのは三重塔と禮堂で、どちらも国の重要文化財です。右の写真は禮堂です。写真がうまく撮れませんでしたが、禮堂の奥に八角形の八角円堂があり、そこにご本尊の十一面千手観音像がお祀りされています。
褐色の肌に、眼が印象的な異国風の顔立ち。これが『霊験記』にも登場した観音様で、眼病に霊験あらたかというので、多くの参拝者が訪れています。
壺坂寺は明治に作られた『霊験記』によって広く知られるようになったと最初に書きましたが、眼の仏として信仰を集めたのはそれ以前からで、古くは白鳳時代に元正天皇が、また平安時代には桓武天皇や一条天皇らが眼病治癒を祈って壺坂寺にお詣りされ、平癒されたと伝わります。
境内には、養護盲老人ホームがあります。眼の不自由な方たちの聖地だった壺坂寺は、現在暮らしを支える福祉の場にもなっています。
八角円堂から遠くに霞む二上山をとらえました。こうした風景を見ることができることに感謝し、境内を後にしました。
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