飛鳥は国家としての「日本」の原点。当然ながら、「日本」の黎明期を担った人たちが眠る古墳もたくさんあります。先日石舞台古墳を取り上げましたが、今回は高松塚古墳とキトラ古墳です。
どちらも、躍動感溢れる色彩豊かな壁画で一躍有名になりましたが、被葬者はいまだ特定されておらず、わからないことが多い古墳です。
上の写真は高松塚古墳です。江戸時代までは文武天皇陵とされており、墳頂に松があったので高松塚と呼ばれていました。
壁画の発見は昭和四十七年(一九七二)。このあたりでは、地元の人が丘陵に穴を掘って芋や生姜を保存する習慣がありました。そうした穴の一つ、この高松塚の穴の奥に凝灰岩の切石があることがわかり、本格的に調査したところ、横穴式の石槨の南に盗掘孔が見つかり、さらにその奥を調べてみると、今まで見たことのない色鮮やかな壁画が現れました。
凝灰岩の四角い石室。その北の壁面には四神の玄武が、東には青龍と男女の群像、西には白虎と同じく男女の群像、そして天井には北極星を中心にした星宿図、さらに東西の壁の天井付近には日月が描かれていました。南の壁面は盗掘の際失われていますが、朱雀が描かれていたはずです。
ちなみに四神とは、古代中国の自然哲学思想・五行思想に従い、東西南北を司る霊獣のことです。
全体として古代中国の思想が大きく影響していることがわかりますが、その中で特異なのは男女の群像です。大陸文化が濃厚な時代にあって、そこに描かれている人物は日本の侍者たちで、「極めて重要な日本の風俗画の嚆矢だ」と美術史家の百橋明穂先生は言われています。
このように貴重な壁画ですが、保存状態が悪くカビが生えたり、西壁が破損する事故が起きたりと散々なことになり、もうこれ以上予断を許さないとのことから、壁画の描かれている石室をいったん解体、移動して修復し、その後元に戻すという大手術を行うことになりました。その作業は十年前に開始され、いまも続いています。
修理画像のニュースに西壁女子群像の写真が出ています。鮮やかな色彩が蘇った様子をどうぞご覧ください。
修復中の壁画の一部を見る機会はありますが、なかなかタイミングが合いません。そんなとき、理解の助けになるのが資料館です。高松塚古墳に隣接した高松塚古墳壁画館では、発見当時の壁画の模写や墳丘の断面が展示されています。また大阪府吹田市にある関西大学には高松塚古墳壁画再現展示室があり、陶板による精緻な壁画が再現されています。複製であっても、すべての壁画を見ることで、当時の支配者層の世界観に多少なりとも近づけるように思います。
高松塚古墳から西を見ると、檜前の風景が拡がっています。
さて今度はキトラ古墳へ。キトラ古墳は写真中央に見える道を一、二キロほど南下した阿部山にあります。このあたりが北浦と呼ばれていたことから、キトラ古墳と呼ばれています。
高松塚古墳の発見を支えたのは、地元明日香村の文化財愛好家による明日香古京顕彰会でした。その要請もあって、昭和五十八年(一九八三)古墳内の調査が行われた結果、キトラ古墳にも高松塚古墳同様の壁画が描かれていることがわかりました。
石室の北壁には玄武、東壁には青龍、西壁には白虎が描かれていますが、高松塚古墳では失われてしまっていた南壁がキトラでは残っており、そこには期待通り朱雀が描かれていました。これらの四神は、高松塚のものと大きさも形も非常に似通っていますが、西壁の白虎の向きが異なっていました。つまり、高松塚では東の青龍と西の白虎が、頭を南に向けていたのに対し、キトラでは西の白虎が頭を北に向け、四神が循環するように描かれていたのです。
天井には高松塚古墳同様に天文図が描かれていましたが、これが驚くほど精緻なもので、研究者たちを驚かせたといいます。これほど詳細は天文図は中国にも朝鮮半島にもなく、最古の天文図として大変貴重だそうです。
その一方で、高松塚古墳に描かれていたような人物画はキトラにはなく、飛鳥美人との再会の夢は潰えました。
キトラ古墳の壁画も、高松塚同様カビが発生したことから、石室からはぎ取って保存・修理され、いまは期間を限って部分的に公開されています。こちらも現物を見るタイミングがなかなか合いませんので、古墳に隣接しているキトラ古墳壁画体験館で、全体の様子を知るのも悪くはないでしょう。
それにしてもこのような高い技術で描かれた壁画に囲われた石室に葬られていたのは一体誰なのでしょう。
被葬者については、天武天皇の皇子説、壬申の乱の功臣説、高官説、渡来系氏族説など諸説あり、いまだ確定するに至っていません。専門家の先生方をもってしてもわからないことを、想像だけで安易に口にするのは慎むべきですが、古墳がその土地に築かれるにはそれなりの理由がありますので、いまは立地のことだけ触れておこうと思います。
高松塚古墳とキトラ古墳は、以前取り上げた檜前にありますが、このあたりを俯瞰してみると、高松塚古墳の北六百メートルほどのところには、天武・持統天皇の合葬墓があるのに気づきます。厳密ではありませんが、高松塚古墳もキトラ古墳も、天武・持統天皇の合葬墓から南に線を引くと、その線にかかります。
天武天皇や持統天皇と関わりがある人物であったことだけは確かで、そこから先は素人なりにまた飛鳥を何度も訪ね歩くことで考えていきたいと思っています。