生駒山は古くから霊山として崇められた信仰の山でした。
先日その東麓に鎮座する往馬坐伊古麻都比古神社(通称・往馬大社)の火祭りをご紹介しましたが、今日取り上げるのは、山腹にある宝山寺です。
ケーブルカーを乗り継ぎ、階段を上り、さらに長い参道を歩き、ようやく宝山寺に到着します。
中門をくぐり現れるのが最初の写真のような風景。巨岩が迫り来る境内に、本堂や拝殿がひしめくように建ち、山の上には深紅の多宝塔も顔をのぞかせています。なんとも言葉では説明のしようがない、ただならぬ雰囲気が漂う境内。あえて言えば、おそろしいという感じでしょうか。身が引き締まります。
この迫力ある巨岩は般若窟と呼ばれ、役行者や空海が修行をしたと伝わります。修験道の聖地だったわけですが、江戸時代の延宝六年(一六七八)、大和の葛城山で修行をしていた湛海が、行を完成するのに生駒山がふさわしいとのお告げを不動明王から感得し、大聖無動寺を建立しました。
これが現在の宝山寺です。
歓喜天の修法に優れていた湛海は、ここに歓喜天を鎮守としてお祀りしました。ご本尊は不動明王ですが、拝殿の奥にある聖天堂には歓喜天がお祀りされ、今に至るまで生駒の聖天さんとして厚い信仰を集めています。
本堂と聖天堂へのお参りを済ませ、途中遙拝所から般若窟を拝み、奥の院へ。その途中、熱心にお詣りする人の姿を何人も見かけました。
奥の院まで来ると人の姿はなく、あたりは深閑とし、生駒山の精霊がいるかのごとく、どこか緊張感のある空気が張り詰めています。
こういうところに身を置くと、自然に神を見た古代の人の気持ちに、わずかですが寄り添えるような気がします。
ちなみに、ケーブルカーの駅から宝山寺までの参道沿いは宝山寺新地と呼ばれる赤線地帯で、いまもそうした旅館が建ち並んでいます。
聖俗が隣り合わせに存在している光景は異様に見えますが、宝山寺に歓喜天がお祀りされていることを思うと、さもありなん…という気がしなくもありません。
歓喜天は人間の欲望をかなえる万能の神で、その多くは、象頭人身の男女が抱き合っている姿をしています。エロチックな姿から秘仏とされることが多い像で、ここ宝山寺でも秘仏です。
もう一つ余談ですが、生駒山の西麓には、別の信仰の形が残っています。その代表は石切劔箭神社、通称石切さんで、ここについては機会を改めアップしたいと思っていますが、今日書いておきたいのはこちらの地図にもあるように、川沿いの山道に点在するお寺のことです。
これらの寺は、朝鮮寺と呼ばれる在日韓国・朝鮮人によるシャーマニズム信仰の寺です。すでに廃寺になっているところもあるようですし、携帯の電波も通じにくいひとけのない山道なので、いまだ訪ねる機会を得ていませんが、これも生駒山信仰の一つです。
生駒山にはいまもなお、さまざまな信仰が根を張っています。古代からの霊山は、現代にあってもその本質は変わっていないようです。