崇峻天皇元年(五八八)蘇我馬子は飛鳥の真神原に氏寺として法興寺の創建を始めました。これが後に飛鳥寺と呼ばれるお寺です。
『日本書紀』によれば、主に百済から僧や技術者が派遣され、馬子が持っていた最大限の勢威と財力でお寺の建設が進められました。完成は用材の伐りだしから十八年後の推古天皇十四年(六〇六)でした。
上の写真は本堂です。かつて金堂があった場所に、江戸時代末期に再建されたもので、そこに有名な飛鳥大仏(通称)が祀られています。
こちらがその飛鳥大仏。鞍作止利によると伝わる釈迦如来像で、現存する仏像としては日本最古です。仏像は立ち上がったとき一丈六尺(およそ四、八メートル)になるのが理想とされ、それを丈六仏と言いますが、この飛鳥大仏もそうです。
何しろこれは人々が初めて目にする仏像でした。その偉容と精緻に造られた技術に驚き圧倒されたことは、容易に想像できます。
後世火災などに遭い、幾度か補修されてはいるものの、全体に飛鳥時代の止利様式をよく伝えています。
現在安居院と呼ばれる飛鳥寺は、境内もさほど広くはなく、こぢんまりとした村の寺といった感じですが、創建当時は境内の広さは法隆寺の三倍近くもあり、正面に大きな塔、塔の北に中金堂、さらには東西にも金堂を配した大寺院だったこと、またそうした配置は高句麗に見られるものだったということが、発掘調査によって明らかになりました。
埋納物も見事でした。硬玉、碧玉、琥珀、水晶、銀、ガラスなどで造られた玉類、金銀の延べ板、金銅製の鈴や装身具、馬具や甲…。
蘇我馬子の権勢のもとに集められた文化の粋、それが飛鳥寺で、それを補佐したのが、先日檜前のところでも触れた東漢氏でした。
初めにも書いたように、このあたりは真神原と呼ばれていました。真神とは、古来聖獣として崇拝されてきた狼のことです。飛鳥寺が造られる前は、荒涼とした原野だったといいますから、狼が実際いたのかもしれませんが、蘇我氏がここを選んだのは、真神のいる土地=聖地ということが背景の一つとしてあったのではないでしょうか。