奈良県明日香村にある甘樫丘は標高百五十メートル足らずですが、丘に上がると古代史の舞台・飛鳥を一望できます。
上の写真は北西から北にかけての眺望。左奥に見える、雄岳と雌岳が寄り添うふたこぶ山は二上山です。いまは「にじょうざん」と呼ばれますが、古代に思いを馳せる身としては「ふたかみやま」と呼びたい山です。西に聳えるこの山に、夕陽が沈むことから、古代の人にとって西方浄土に思い巡らせる山でした。大和国を語る際、欠くことのできない山です。それに続き、写真正面奥に連なるのは、信貴山から生駒にかけての山並みです。
二上山手前に見える緑濃い山は、大和三山の一つ畝傍山です。
さらに視線を北に向けてみると、大和三山の残り二つ、耳成山と天香具山も見えます。上の写真、左の小さな山が耳成山、右の横に拡がる山が天香具山です。藤原京は天香具山の西にありました。
他方、こちらは東の風景です。
集落に目を凝らすと、日本最古の本格的仏教寺院である飛鳥寺や、おんだ祭で知られる飛鳥坐神社もとらえることができます。
現在展望台になっているこの場所からは見えませんが、南には飛鳥京も。つまりここは、七世紀日本という国が形成された舞台を眼下に見下ろすことのできる絶好の場所でした。
平成十七年(二〇〇五)から翌年にかけて、甘樫丘の東麓から七世紀のものと見られる石垣や建物跡が発見され、これこそ飛鳥時代強大な権力を誇っていた蘇我氏の邸宅跡ではないかと言われています。『日本書紀』巻二十四 皇極天皇三年(六四四)に記されている家が、それではないかというわけです。
冬 十一月に、蘇我大臣蝦夷・児入鹿臣、家を甘檮丘に双べ起つ。(中略)家の外に城柵を作り、門の傍に兵庫を作る。
乙巳の変(六四五)で入鹿が中大兄皇子らに暗殺されると、蝦夷は邸宅に火を放ち自害したと『国記』などは伝えます。
上の写真ではあいにく木々に隠れてしまっていますが、飛鳥寺の西、つまり写真の手前方向に、蘇我入鹿首塚があります。乙巳の変の舞台はここから六百メートルほど南の飛鳥板蓋宮でしたが、そこから入鹿の首が飛んできて、ここで力尽きたという伝説から、鎌倉時代または南北朝時代に建てられたものです。
静寂に包まれた穏やかな風景の奥深くに息づく歴史は、決して眠っているのではなく、現在に続く同じ時間の流れの上にあると強く思える、それが飛鳥です。長閑な風景を前に、心が躍ります。