備前焼の里・伊部から車で十分ほど、周囲を山々に囲まれた閑谷。
字のごとく静寂に包まれた谷間に、寛文十年(一六七〇)岡山藩初代藩主池田光政により「庶民のための公立学校」として日本で最初に開かれた旧閑谷学校があります。
光政はこれに先立ち、寛永十八年(一六四一)に全国初となる藩校を開校していますが、地方の指導者を育成するには、庶民の教育が重要との思いから、ここ閑谷の地を視察、一目でこの地が気に入り、閑谷学校の建設を命じました。
山水清閑 宜しく読書講学すべき地
光政は閑谷をこう称賛しています。
実際ここに立っていると、周囲を取り巻く山々との距離がほどよく、優しく包み込まれるような安らぎを感じます。それが集中力を生むのでしょう。
写真は国宝の講堂。屋根の瓦は備前焼で作られています。三百年以上経っても、ほとんど割れたものがないといいますから、備前焼の堅牢さには驚きます。
敷地面積はおそよ三万八千平方メートル。そこに学問の殿堂「講堂」や池田光政をお祀りする閑谷神社、儒学の祖孔子の徳を称える「聖廟」などが緩やかに配置されています。
右が閑谷神社、左の樹木の後ろに見えるのが聖廟ですが、あいにく聖廟は現在改修工事中。
どちらも国の重要文化財です。
こちらは国宝の講堂内部。手入れの行き届いた床に、美しい意匠の窓から光が射し込みます。
広大な敷地をぐるり取り囲む、切り込み接ぎ式の石塀。高さは一メートルほど。外界と区切られていながら視界は繋がるという、絶妙な高さです。気品すら感じる石塀、これもまた美しい…。
儒学の教えである仁政の実現を目指した池田光政は、極めて高い美意識の持ち主だったのでは…と感じます。
およそ三十二年もの歳月をかけて完成した閑谷学校。光政はその完成を目にすることはできませんでしたが、「後世に残る学校を」との思いは受け継がれ、時代が変わっても学びの場であり続けました。
幕末には高山彦九郎、頼山陽、大塩平八郎らがここを訪れていますし、明治には正宗白鳥や三木露風の姿もありました。
現存する庶民のための公立学校として、今や世界最古だとか。
備前の誇るべき文化遺産です。
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