兵庫県の南東、西宮市の北に、お椀を伏せたようなころんと丸みを帯びた美しい低山があります。甲山と呼ばれ地元の人たちに親しまれている山で、現在山の中腹には甲山大師とも言われる真言宗の古刹・神呪寺がありますが、この山は寺の創建以前から聖なる山として信仰されてきた霊山でした。
現在甲山から南に三キロほどのところに廣田神社が鎮座しています。『日本書紀』に、神功皇后が三韓征伐からの帰途、天照大神の神託により荒魂をお祀りしたと、創建由来が記されている古社ですが、当初廣田神社は甲山の麓にあり、甲山を御神体としてお祀りしていたと言われています。
甲山という名前は、神功皇后が如意珠や金甲冑、弓、剣などを埋めたことに由来するという説や、形が甲に似ているためという説などがあり、確かなことはわかりませんが、瀬戸内海航路を見下す位置にある甲山が古代倭王権にとって重要な場所だったということは確かでしょう。
飛鳥時代には役小角が修行をしたこともある甲山に、弘法大師空海に帰依して出家、如意尼と称した淳和天皇の第四后真名井御前が、平安時代初期の天長八年(八三一)に堂を建立したと伝わります。それが神呪寺の創建由来で、その後神呪寺は栄枯盛衰を繰り返しました。
ちなみに神呪寺は、甲山が古来「神の山」とされてきたことに由来しますが、同時に仏教において神呪は呪文、マントラ、真言と同義です。「神の寺」を意味する音と、真言を意味する神呪が結びついて、神呪寺になったようです。
最も繁栄したのは鎌倉時代で、源頼朝により諸堂が再建されるも、戦国時代には織田信長による荒木村重攻めの際に、多くの堂宇を焼失、その後文禄年間には太閤検地により寺領の大半が没収されるなど、時代に翻弄されます。現在の諸堂は江戸時代のものです。ちなみに、創建当初寺は別の場所にあり、現在寺がある場所は奥の院だったようです。
ところで創建に関わった如意尼(真名井御前)は丹後の出身と伝わりますが、その出自については諸説あります。
一つは、丹後国(現在の福井県)一宮である籠神社の宮司を代々務めている海部氏三十一代当主・海部直雄豊の娘・厳子姫であるという説。厳子姫は幼いときから如意輪観音に篤い信仰を寄せ、十歳のときには京都頂法寺の六角堂で修行、二十歳のとき当時まだ皇太子だった淳和天皇に見初められ、第四后として宮中に入るも、女官たちの嫉妬に遭い宮中を出、廣田神社から甲山に入り、神呪寺を創建したという話が籠神社のHPにも書かれています。
真名井御前の名は、故郷籠神社が鎮座している真名井原にちなんでつけられたと言われています。
また丹後国加悦町にある慈雲寺には、次のような話も伝わります。
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寺のある香河というところに、貧しい夫婦が暮らしていましたが、子供がなかったことから天に祈りを捧げたところ、あるとき女の子を授かります。その後都から来た旅の僧が美少女に成長したその娘に出会い、僧はこの少女の父母に「この児を私にくださらぬか。都へ連れ帰って必ず大切にお育ていたします」と懇望。その日の暮らしに困っていた両親は、「大切な娘を手放したくはありませんが、いまはもう育てていく力がありません」と承諾、娘は僧に連れられ西国霊場を巡拝し、後に京都の項法寺という寺へ預けられました。
娘の名は小萩といって、そのとき七歳でした。
小萩が十九歳になった時、当時皇太子だった淳和天皇の目に留まり、宮中へ召されます。後に小萩は皇妃となって寵愛を受け、宮中では与佐の宇屋居子または厳子と呼ばれていました。
ところが、小萩は宮中へ出入りする空海の信仰に惹かれ、ついに待女二人を連れて宮中を抜け出すと空海に弟子入りし、剃髪して「如意」の法号をもらい摩耶山(兵庫県の六甲山地中央の山)に入ります。
如意尼三十三歳のとき、空海が入寂、無常を感じて帰郷を決意し、故郷の香河に草堂を作りました。それが後の慈雲寺で、丹後には如意尼が創建に関わったという謂われをもつ寺が他にもあるそうです。
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籠神社の海部家の娘であれ、貧しい農家の娘であれ、丹後国に生まれた美しい少女が宮中に入ったという点は共通しています。
淳和天皇第四后の如意尼(真名井御前)が神呪寺を創建したというのは、鎌倉時代の『元亨釈書』によりますが、『帝王編年記』には淳和天皇皇后の正子内親王の夢告によって創建されたとあります。
淳和天皇の後宮に如意尼がいたのかどうかは確かめようがなく、如意尼の話は正子内親王の話を発展させ作られたものではないかという説があることをここで述べておきます。
それはさておき、如意尼(真名井御前)というと、空海と恋愛関係にあったという説もあるようです。その辺りのことはわかりませんが、神呪寺に伝わる如意輪観音は、真名井御前の姿を空海が刻んだものと言われています。その如意輪観音は、先日このブログでも取り上げた観心寺の如意輪観音と、室生寺の如意輪観音と共に、日本三如意輪とされています。
神呪寺では毎年五月十八日に限りご開帳になります。観心寺で如意輪観音像を拝観して以来、神呪寺での拝観を心待ちにしていました。
甲山は標高三百メートルほどの低山ですが、阪急甲陽園駅を出るとすぐに上り坂になり、次第にその坂がきつくなっていきます。途中からは上の写真のような山道が続きます。
最初に見えてくるのは、江戸時代後期に建てられた仁王門。仁王門と冒頭の写真の間に車道が通っているので、車であがってくると見落としてしまうかもしれません。
甲山の中腹にあるので、門をくぐった先も長い石段が続きます。後ろに見えるのが甲山です。
こちらが本堂。あいにく私がここに掲載できる如意輪観音像の写真はありませんので、関心のある方はネットでご覧くださいませ。桜の寄せ木造りで像の高さはおよそ二尺二寸(一三二センチ)、国の重要文化財です。
初めて目にした如意輪観音像は、ゆったりとくつろいでいるような雰囲気で、肌が呼吸しているような生気が感じられました。
ちなみに如意輪観音像は十世紀後半から十一世紀のもののようなので、空海が造ったものではないでしょう。そもそも真名井御前の話が史実かどうかもわかりません。でも何を信じるかは自由です。交通の便が決して良いとはいえないこのお寺に女性を中心とした多くの参拝者が訪れ、熱心に祈りを捧げている姿が印象的でした。
神呪寺には他にも多くの仏像があります。聖観音像(平安時代)、不動明王像(鎌倉時代)、弘法大師像(鎌倉時代)、いずれも国の重要文化財です。また意外なところで、歓喜天の厨子も開けられ拝観することができました。歓喜天については、生駒の宝山寺でも触れましたので、よろしければご覧くださいませ。
あいにく霞んでしまいましたが、すっきりと晴れていれば大阪湾や大阪平野を一望できます。こういうところだからこそ、神功皇后の伝説の地となり、空海の足跡も見られるのでしょう。