旧東海道の取材をしていたころですから、今から八年ほど前になります。見付の一の谷というところに、様々な埋葬形態を伝える中世の大規模な墓地遺跡があったと知りました。あったと過去形を使うのは、現在その遺跡はほとんど破壊されなくなってしまったからです。
場所は旧東海道見付宿の北西八百メートルほどのところにある丘陵の先端で、現在水堀(磐田市)という地名になっています。
一の谷遺跡と呼ばれるその墓地遺跡は、宅地開発のための事前調査によって八十年代半ばに発見されたものですが、一万五千五百平方メートルという広大な丘陵に二千もの墳墓が築かれていました。規模の上でも、塚墓、土壙、集石墓といった種類の上でも、中世から近世という時代の幅においても、また副葬品の種類においても予想をはるかに超えたもので、全国的にも類を見ないものだったことから、網野善彦氏を中心とするめ歴史学者や考古学者、民俗学者、そして地元の住民たちが何とかこの遺跡を残そうと様々に手を尽くしました。当時の文化庁も全面保存を前提に国指定史跡にと後押ししたようですが、結局開発が優先され残念な結果に終わってしまいました。
私が一の谷遺跡の存在を知ったのは、網野氏が中心となって行われていた研究会の報告書「見付に一の谷遺跡があった」を手に入れたことによります。そこには専門家から地元の人まで遺跡保存のために関わった様々な人たちの声が寄せられているのですが、遺跡の価値を知るにつれ、「ブルドーザーによって遺跡が破壊されてしまった」という一の谷遺跡を考える会代表の小和田哲男氏の言葉は深く胸に突き刺さりました。
一の谷遺跡のあった北西というのは、古来祖霊が去来する方向と考えられてきたところで、中世の見付の発展を支えそこで暮らしてきた祖霊を祀るのにこれ以上ふさわしい場所はありません。それを無残にもつぶし開発されてできた町というのは、今どのような姿をしているのでしょう。おそらくそうした歴史は過去に押しやられ、ごく普通の住宅街が拡がっているはずで、あえてそこまで足を延ばさなくてもよかったのですが、遺跡のごくごく一部が小さな公園になって保存されているというので行ってみました。
公園内には土壙墓や塚墓、火葬遺稿などが残っています。冒頭の写真は集石墓といって石を集めて造られた墓で、中央に火葬骨が収められていました。
左上は遺跡全体に見られる土壙墓で、十三世紀以降に造られたそうです。右上は土を盛り上げて造られた塚墓、十三世紀から十四世紀後半にかけてのものです。
下の写真は一の谷遺跡で最大と最初の墓ですが、コンクリートで固められており、本来の姿がイメージできません。
つい最近、大阪府南河内郡河南町にある一須賀古墳群を訪ねました。河内飛鳥と呼ばれる地域の丘陵に、六世紀から七世紀にかけて築かれた二六二基からなる古墳群は、大阪の歴史ばかりか日本の歴史にも深く関わる重要な遺跡ですが、ここも昭和四十年代に大規模な宅地開発の手が伸び、かなりの部分が破壊されました。ダイナマイトを使って百基の古墳を破壊したといいますから、なんということをしたのかと怒りがこみ上げてきます。幸い一須賀古墳群の重要性を大阪府が認識し、開発業者から土地を買い戻したことで、すべてではありませんが群集墓の一部が史跡公園として保存され現在に至っています。こちらの史跡公園は軽い山歩きができるような自然の中にあり、週末には多くの人で賑わいます。史跡公園を訪れるすべての人が歴史に興味を持っているわけではないでしょうが、河内飛鳥の開発に多大な貢献をした被葬者たちが眠る場所に現代人が足を運び、その土を踏むことで、名も知らぬ彼らの魂は救われるような気がします。間一髪のところで貴重な古墳群は救われました。
翻って見付の一の谷遺跡は寂しい場所でした。ほんの少しでも保存されたのだから良いとも言えますが、一の谷遺跡の全体像を伝える地図のようなものもなく、コンクリートで固められた墳墓は見ているだけで息苦しさを覚えました。
壊されてしまったものはもう元には戻りません。せめて今後、こうした破壊がなされないようにするために、微力ながら個人でできることといえば、それぞれの土地の歴史を知ることなのかなと思います。