「歩いて旅した東海道 藤枝」で行基について書きましたが、行基は河内国、現在の大阪府堺市西区家原寺町の出身です。
父は中級の渡来系氏族高志氏、十五歳で出家すると、布教活動ばかりか社会事業にも大きく貢献しました。布教については、行基が建てたと伝わる道場や寺院は四十九院。社会事業については、溜め池を造ったり、溝や堀を造ったり、橋を架けたりといった土地の開発に関わる事業のほか、困窮者のために布施屋と呼ばれる施設を建設したことなどがあげられます。
行基はそうした活動を各地で行っていますが、七三〇年前後に猪名川と武庫川の間に拡がる猪名野(伊丹台地)を大々的に開発したことから、大阪空港に近い兵庫県伊丹市に行基の足跡がいくつか残されています。
冒頭の写真は、天平三年(七三一)行基創建と伝わる昆陽寺です。正式には「こんようじ」と読みますが、「こやでら」と呼ばれることもあります。
『行基年譜』に行基が手がけた寺院や施設などが記されていて、そこには六十四歳の天平三年、昆陽施院を造ったとあります。その昆陽施院がどこにあったのか、まだはっきりしたことはわかっていませんが、昆陽寺は昆陽施院の法統を受けた寺であることは間違いなさそうです。
ちなみに行基が手がけたとされる四十九院のうち、施院と名付けられているのは昆陽施院だけで、他の院とは異なる役割、たとえば布教活動の場である院に布施屋の機能を加えた施設だったのではないかとか、溜め池や水路、社会福祉施設などの管理機能を合わせもった施設だったのでは、と諸説あるようです。
そうした歴史が背景にある昆陽寺は、天正七年(一五七九)に織田信長と荒木村重の戦で戦火を被り堂宇を焼失、現在ある建物は江戸時代に再建されたものです。
冒頭と上の写真は山門。江戸中期のもので豪壮な造りです。
左下の写真は本堂。阪神淡路大震災で大きな被害を被り、再建されています。右下は行基堂。
昆陽寺は交通量の多い国道一七一号線沿いにありますが、境内に足を踏み入れると外の音から遮断され、静寂に包まれています。
木立の中に、行基塚と行基の歌碑があります。歌碑に刻まれているのは行基による歌。
山鳥のほろほろとなく声きけば 父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ 行基
行基の民衆救済に対する強い思いの源を見るようです。
昆陽寺の北東一キロほどのところにあるこちらの池は、行基が造ったとされる池の一つ昆陽池です。
行基は天平年間に猪名野を開墾すると、灌漑用の溜め池として五つの池と二つの溝を造ったと伝えられています。写真の昆陽池はそのうち最大の池でした。
現在の昆陽池は白鳥やヌートリアほか、多くの野鳥の住処となっていますし、魚類も豊富で、伝説の行基鮒も棲んでいるのだとか。ちなみに昆陽池の東にある瑞ヶ池も行基によるものと言われています。