聖徳太子が建立したと伝わる寺の一つに、大阪の四天王寺があります。
『日本書紀』によると、用明天皇二年(五八七)、仏教の受容と皇位継承を巡り蘇我氏と物部氏が対立、当時十四歳だった厩戸皇子(後の聖徳太子)が白膠木という木で四天王像を造り仏の加護をお願いしたところ、戦いに勝利したことから、推古天皇元年(五九三)摂津国難波の荒陵に四天王寺が建立されました。
蘇我馬子による飛鳥寺と並び、日本最古の本格的仏教寺院です。
境内はおよそ三万三千坪。大阪の中心部に位置し、現在は高いビルに見下ろされるようになっていますが、境内に足を踏み入れると千四百年以上続く聖地の色濃く、各所で熱心な信者の方たちが手を合わせる場面に出会います。
四天王寺といえば、冒頭の写真にあるように、中門、五重塔、金堂、講堂を南北一直線に配し、その周りを回廊で囲った四天王寺式の伽藍配置です。第二次大戦による大阪空襲で全焼したことから、現在の建物は昭和三十八年に再建された鉄筋コンクリート造りのものですが、創建当時の伽藍配置はしっかりと守られています。
平安時代以降、四天王寺は太子信仰の聖地として、宗派の垣根を越え多くの人からの信仰を集めました。また四天王寺の西門が西方極楽浄土の東の入り口であるとする浄土信仰も加わり、西の海に沈む夕陽を拝する聖地としても多くの信者が集いました。写真左上は極楽門とも呼ばれる西大門、右上は石鳥居。春分と秋分の彼岸の中日には、鳥居のちょうど真ん中に夕陽が沈むのだそうです。
熱心な信者には、藤原道長、頼道、鳥羽上皇、後白河上皇のほか、最澄、空海、良忍、親鸞、一遍といった高僧の名も見えます。かつての海岸線は今よりもかなり東にあったので、四天王寺からは海が見えたのでしょう。夕陽丘町という地名が、その歴史を伝えています。
四天王寺は平安時代から落雷など度重なる災害で何度も立て替えを余儀なくされてきました。甚大な被害を被ったのは大阪空襲のときですが、江戸時代からの建物もいくつか残り、いずれも国の重要文化財に指定されています。
こちらは六時堂と石舞台です。六時堂とは、昼夜六度礼賛をすることからそう呼ばれるようになったもので、現在のお堂は寺の西北にあった元和九年(一六二三)建立の薬師堂を、文化八年(一八一一)に現在地に移築したものです。ご本尊は薬師如来像。
手前の石舞台は文化五年(一八〇八)に大坂の材木問屋の寄進で造られたもの。毎年四月二十二日に行われる精霊会では、この舞台で舞楽が奉納されます。
こちらは五智光院。文治三年(一一八七)後白河法皇が灌頂を受ける際に灌頂堂として建立されたものを、元和九年(一六二三)徳川秀忠が再建したと伝わります。ご本尊は五智如来。堂内には徳川幕府によって祀られた将軍の位牌もあります。
元和九年徳川秀忠の命で再建されたと伝わる本坊方丈。
こちらも秀忠により元和九年に再建された元三大師堂。最初のお堂は最澄による建立と伝わります。
ちなみに四天王寺は第二次大戦で甚大な被害を被った後、戦後の混乱から人々の心を救うべく、和宗を名乗りました。
和宗の和とは、十七条憲法の第一条にある「和を以て貴しと為す」の和の精神にたち返ることを意味します。
聖徳太子は仏教の精神を実践すべく四天王寺に四箇院を設置したと伝わります。四箇院とは敬田院、施薬院、療病院、悲田院の四つ。敬田院の敬田とは仏を敬い教えを広めるということなので、敬田院はつまり寺そのもののことです。施薬院と療病院は現代の薬局と病院に相当、悲田院は老人や身よりのない人のための施設ですが、和宗となった四天王寺はこの四箇院を受け継ぎ、学校、病院、老人施設などの運営にも着手し現在に至っています。
ちなみに四天王は仏教における四体の護法神で、仏法や仏法に帰依する衆生、国家を守護するとされています。そうした名を冠した寺が難波に建てられたということからも、古代における難波(現在の大阪)の重要性がわかります。