数日前までお天気が気がかりでしたが、三年ぶりの巡行を祝福するように朝から見事に晴れ渡りました。
前祭の山鉾巡行は同日夕方に行われる神輿の渡御(神幸祭)に先立ち、町と通りを清める意味があります。二十四日には後祭の山鉾巡行がありますが、これも御旅所に安置されていた御神輿が八坂神社に戻られる還幸祭に先立ち、町と通りお清めするものです。
前祭の巡行は二十三の山鉾によって行われます。くじ取らずの長刀鉾を先頭に、今年は孟宗山・保昌山・郭巨山・函谷鉾・白楽天山・四条傘鉾・油天神山・月鉾・蟷螂山・山伏山・霰天神山・鶏鉾・木賊山・綾傘鉾・占出山・菊水鉾・芦刈山・伯牙山・太子山・放下鉾・岩戸山・船鉾の順です。
先頭を行く長刀鉾には生稚児が搭乗します。祇園祭の山鉾に乗る生稚児としては唯一で、強力にかつがれたお稚児さんが長刀鉾に搭乗すると鉾はゆっくりと動き出し、四条麩屋町に張られた結界の注連縄をお稚児さんが太刀で断ち切ると、いよいよ巡行がスタートします。出発の場面も見所ではありますが、やはり辻回しを見たいということで、今回は烏丸御池で山鉾の到着を待つことにしました。
辻回しというのは、交差点で山鉾を九十度方向転換することですが、大きな鉾だと十トン近くにもなるので皆の息が合っていないとうまくいきません。車輪が回りやすいよう青竹を敷き詰めそこに水をかけ、「エンヤラヤー」という音頭取りの合図に合わせ、大勢の引き手が引き綱を引いて山鉾の向きを変えていく様は、絢爛豪華な祇園祭の中でも勇壮な見せ所で、見ている方も力が入りますし、なにより鉾町の人たちの祇園祭にかける思いに魅せられます。
冒頭の写真は長刀鉾が河原町通から烏丸御池の交差点にさしかかったところです。ここで辻回しが行われ、九十度向きを変えて御池通に入ります。
二度の辻回しで六十度ほど向きが変わりました。
三度目で完全に九十度の方向転換に成功です。
音頭取りが扇子を前に付き出すと、鉾が前進します。巨大な鉾が動く際、時おりごとんと大きな音がして鉾が揺れますが、搭乗している人たちはまったくそれに動じることなく、それぞれの役に集中しています。
ちなみにお稚児さんは七月十三日に行われた社参の儀で神の使いとしての位を授かると、それ以後巡行が終わるまで地面に足をつけることができませんし、食事は食べる前に火打ち石でお清めしてからになります。女性は穢れの対象なので母親と接することも許されず、お稚児さんの世話はすべて父親が行います。
現在の祇園祭で生稚児が乗るのは長刀鉾のみ。他の鉾には人形の稚児が乗っています。
かつて祇園祭では船鉾以外のすべての鉾に生稚児が乗っていたそうですが、稚児を出すというのは費用の点も含めて大変なことで、それが可能な家が何軒もないと継続することが難しくなります。上は函谷鉾ですが、天明の大火で鉾が焼けてしまい、再建に大変な苦労があった上に、鉾町に町人の家が少なかったこともあり、生稚児が出せるようになるまで稚児人形をその代わりとさせてほしいと願いでて許可されたという経緯があります。函谷鉾の稚児人形は左大臣一条忠香のご令息である実良君(明治天皇の后である昭憲皇太后の実兄)をモデルに作成されたもので、嘉多丸と命名されました。
鉾の辻回しが勇壮で豪快なのに比べ、山による山廻しは軽快に見えます。十数人の担ぎ手によってひょいともちあげられるとさっと向きを変え(といっても山は実際には一トン近くありますのでそう見えるだけですが)、山によっては一回転どころか数回くるくると回転し、場を盛り上げてくれます。
上は孟宗山。
下は蟷螂山。
…と、このような感じで休み休みゆったりとしたペースで巡行が進んでいきますが、無理な姿勢と暑さがたたってエンストを起こしたのでこの場を離れ、所用のため室町通を訪れたところ、巡行を終え帰途についていた孟宗山に遭遇しました。
孟宗山の見送は竹内栖鳳の白地墨画竹林図。これを間近で見ることができ、エンジン全開。それからが本格的な巡行見物となりました。観客の多い御池通の巡行を終えた山鉾は、室町通や新町通を経てそれぞれの町に帰りますが、四条通や河原町通、御池通と違って道幅も狭く、昔ながらの巡行の様子を楽しむことができます。
室町通から新町通に移動、次々と帰還の途につく山鉾がやってきます。新町通は電柱とすれすれになる場所もあり、辻回しとはまた違った迫力がありますし、なにより引き手の方たちの真剣な表情や息づかいを間近で感じることができます。懸装品はもちろんのこと、車輪を操作する裏方たちの俊敏で巧みな腕裁きにも見入りました。
素人写真ですが、雰囲気を感じていただけたら幸いです。
ここまでは烏丸御池でも見た函谷鉾。
再び蟷螂山。巡行には小田原から外郎氏の末裔の方も参加されたようです。
こちらは最重量の月鉾。それを支える巨大な車輪。大きさに圧倒されます。
霰天神山。こちらの前懸は十六世紀にベルギーで製作されたタペストリーで、叙事詩「イーリアス」から「出陣するヘクトールと妻子の別れ」の場面が描かれていますが、このタペストリーはこの後登場する鶏鉾の見送に用いられているタペストリーや、滋賀県長浜市で行われる曳山祭に登場する鳳凰山に用いられているタペストリーと元は同じ一枚だったものです。
なぜか担ぎ手が全員外国人の木賊山。皆さん笑顔で楽しそうです。
続いて綾傘鉾。巡行では六人のお稚児さんが鉾を先導します。お稚児さんたちの後には、棒振り踊りの一行が続きます。
こちらが鶏鉾。先ほどの霰天神山の前懸と元は同じタペストリーだったもので、本来のタペストリーは重要文化財、巡行では復元新調されたものが用いられています。
続いて伯牙山。見送は刺繍による「五仙人図」。
こちらは太子山。胴懸は金地孔雀唐草図、インド刺繍によるものです。
菊水鉾。鉾に乗る音頭取りは通常扇子を手にしていますが、菊水鉾では菊の葉の形をした団扇を用います。
ここまできたところで空が急に暗くなり、ひとしきりの雨。
空が一転かき曇り雨が打ち付けるなかに登場したのは、岩戸山です。国生み神話と天岩戸の神話を合わせてのがこの山のテーマ。御神体人形として伊弉諾尊像、天照大神像、手力男命を乗せているはずが、正面にその姿が見えません。雨が降ってきたこともあり、早めに片付けられたようです。
雨に濡れた道を進むのは船鉾。『日本書紀』の神功皇后による三韓征伐に由来し船の形をしています。
巡行順では船鉾がしんがりですが、その後から放下鉾が。
新町通を経て各町に戻る山鉾はここまでです。
懸装品をつけ京都の町を巡行する山鉾は、京都の歴史と伝統をまとった唯一無二の存在です。間隔が空いてしまったことで、鉾建てはもちろん巡行に際しても多くのご苦労があったと聞きました。継続することの大切さを痛感させられる話です。今後中止に追い込まれるような事態が起きないことを願うばかりです。
七月の京都の町は祇園祭中心に動いているような感じがしますが、実際そうなのでしょう。今週末には後祭、還幸祭、二十八日に神輿洗い、二十九日に八坂神社で神事済報告祭、三十日に同じく八坂神社で疫神者夏越祭があり、それでようやく一月近くに及ぶ祇園祭が終わりを告げます。