大阪北部、淀川右岸の高槻市に阿武山という標高二八一メートルの山があります。北摂山系の一つで、東には天下分け目の戦いで有名な天王山、西には千里丘陵が拡がり、南の平地には北東から南西に向かって淀川が流れています。一帯は古代三島郡だった地域です。淀川流域では古くから稲作が行われ発展、その周辺には真の継体天皇陵とされている今城塚古墳や、宮内庁が継体天皇陵と治定している太田茶臼山古墳、安満宮山古墳、弁天山古墳、岡本古墳など、古墳時代前期から終末期まで大小さまざまな古墳が築かれました。
今回取り上げる阿武山古墳は、古墳時代終末期の七世紀、淀川を見下ろす阿武山山頂付近に墳丘を持たず地下に築かれた珍しい古墳です。地下に造られたことが幸いし未盗掘だったため、昭和九年(一九三四)に初めてこの古墳が発見されたとき、被葬者の遺骨やその身分を証明する遺物が極めて良好な状態で残っていました。遺物から被葬者はかなり身分の高い貴人、それも藤原鎌足ではないかということで当時新聞でも大きく報道されましたが、異分野の権威の専横とそこからはじき出された考古学研究室間の対立とそれがもたらす混乱や、内務省からの圧力などから、発見から四ヶ月ほどで埋め戻され、戦後の混乱もあって人々の記憶から消えていきました。その経緯は悲劇的といってもよいものでした。それから半世紀ほど経った昭和五十七年(一九八二)、周辺に開発の手が及びそうになったため史跡として保存することが急務となり、調査と整備が行われ現在に至っています。
これほどの古墳でありながら、現在阿武山古墳と聞いてすぐにわかる方はそう多くはないのではないでしょうか。もちろん私もつい最近まで知りませんでした。これが意識に上るようになったきっかけは、北摂に点在する藤原鎌足に関係する史跡などを訪ねたことにありますが、実際阿武山に何度か足を運び、関連する書籍に目を通すうち、今以上にこの古墳にとって望ましい形で保存研究が進んでほしいという思いが強くなりました。私自身の記憶に刻みつけるためにも、少し長くなりますが昭和九年の最初の発見から現在に至る経緯をここに書き留めておきたいと思います。ちなみに参考にしたのは『甦った古代の木乃伊 藤原鎌足』(小学館)と『藤原鎌足と阿武山古墳』(吉川弘文館)です。
阿武山古墳の発見には、山頂付近にある京都大学の阿武山地震観測所が大きく関わっています。
昭和二年(一九二七)丹後半島を中心に巨大地震が発生し、死者約三千人、負傷者約七千八百人、家屋の全壊約一万二千五百軒、焼失約八千二百軒…と甚大な被害をもたらしました。北丹後地震と呼ばれる地震ですが、その地震の後地震研究を進めるために昭和五年(一九三〇)阿武山山頂付近に京都大学地震研究所の阿武山地震観測所が創設されました。初代所長は地球物理学者の志田順教授で、観測所の完成は昭和八年(一九三三)です。今も下の写真のように当時のままの建物があり、日々観測や研究が行われています。古墳発見の舞台は、この建物後方に続く山中でした。
昭和九年(一九三四)四月二十二日、地震計を設置するために、志田教授指示の下、地元の安田藤太郎氏が現場監督となってトンネルを掘っていたところ、地下五十センチほどのところから饅頭型に敷き詰められた瓦礫が出てきました。さらに掘っていくと漆喰の層が現れ、その下から大きな石を組み合わせた室のようなものが姿を現しました。その石を取り除かないことには深い穴が掘れないというので、人夫の数を増やし、大きな石を動かそうとしたそのときです。石と石の間に隙間が出来、中のものを見て驚いた人夫は大声をあげて安田氏の元に駆けつけました。安田氏が現場を確認すると、棺らしき黒い箱が中央に置かれていました。
発見時の様子については、阿武山古墳を長年取材してきた元朝日放送記者の牟田口章人氏が、『甦った古代の木乃伊 藤原鎌足』(一九八八刊)と『藤原鎌足と阿武山古墳』(二〇一五刊)の二冊において詳細に書かれていて、当時の様子が目に浮かぶようですが、両者で時系列に若干ずれがあり前後関係が不明なところがあります。どちらが正しいのかわかりませんので、日付けについては、高槻市教育委員会編、吉川弘文館刊の『藤原鎌足と阿武山古墳』に書かれた内容を元に進めることにします。
四月二十四日、京大考古学研究室の濱田耕作教授の元に、志田教授から古墳が見つかったと連絡があり、その場にいた弟子の末永雅雄氏が発見現場に駆けつけます。隙間から石室に体を入れ棺の蓋をわずかに開けると、光り輝く金糸と被葬者の骨などが確認できたことから、末永氏はすぐに研究室に戻り濱田教授に報告、二十六日に濱田教授は梅原末治氏ら大学関係者と共に阿武山古墳を訪れます。(ご存じの通り、その後末永氏も梅原氏も日本を代表する考古学者になられています)濱田教授一行が到着したその日の午後、棺の蓋が外されました。作業にあたった一人が、現場監督でもある安田氏で、安田氏はそのときのことを鮮明に記憶しており、発見談として後に聞き書きされた資料が残されています。それによると、蓋がなかなか動かないので志田教授に言われバールを入れたところ、蓋は音を立てて縦に割れ、棺には白骨が横たわっていたそうで、志田教授は青い顔をして震えていたと証言しています。また梅原氏が執筆した調査報告書(大阪府 一九三六)には、遺骸は南枕で布帛も若干残り、頭部から枕と思われる突起物にわたって金糸も残っており、埋葬時の状態をよく留めているが、副葬品には見るべきものがなく期待を裏切ったとあるそうです。安田氏や末永氏が鮮明に記憶していた金糸が、被葬者の身分を示す類を見ない遺物の可能性があるということが、そのときはすぐにわからなかったようです。ちなみに棺の中にはこの金糸と共にもう一つ被葬者の身分を伝える重要な遺物がありました。それについては後で触れることにして、経緯の話に戻ります。
濱田教授一行の訪問から三日後の四月二十九日、今度は大阪府の担当者が調査に赴き、このときも棺の蓋が開けられています。五月二日付けの新聞には、梅原氏が棺に手を入れ、胸のところにある樹皮のようなものを持ち上げている写真が掲載され、記事には「男子のものと思へる人骨が毛髪、歯、織物の残存物とともに残っているが、棺の隙間から入った木の根が炭化しているほか貴金属らしいものは見られず、胸のあたりと思へる箇所に細い金糸数本が光っていた」とあります。
ここまでの経緯を知り驚いたのは、発見から少なくとも四回にもわたって棺の蓋が開けられ、中の遺物に直接触れられていたということです。いつどの時点だったのか定かではありませんが、棺は保存の観点から地震観測所の建物地下に移されています。観測所に置かれた棺の蓋を、志田教授が何度も上にしたり下にしたりしていたとは、安田氏の回想。工事を手伝っていた別の人の言葉として、考古学とは無縁だった志田教授がいつしか発見された遺体に夢中になり、腰のあたりに手を入れて黒い塊をつかんだとか、枕を包んでいた布を鋏で切ったとか、針金に通されたガラス玉を引きずり出したら玉が割れてしまったとか、次第に乾燥して白かった骨が黒ずんできて棺にもゆがみやひびが出てきたので志田教授に言われて如雨露の水を棺の中にかけたとか、信じがたいことが先の本には書かれています。
未盗掘の古墳から遺骸が出てきたというので、国の史跡に指定する方向で大阪府や京大考古学研究室は動き始めるも、地震研究所の志田教授は独自に調査を始め、周辺を掘って墓道や排水溝らしいものを確認したり、土師器の壺を掘り出したりしていたそうです。気づけば考古学研究室が近づくことさえできないような状態になっていました。同時に、阿武山古墳のことが新聞で取り上げられると、大勢の人が現地を訪れるようになります。当時は交通も不便でしたから、行くだけでも大変でしたが、金糸を纏う貴人と紹介されたものを見たいというので、大騒ぎになり、本来の地震観測業務にも支障が出るほどだったといいます。志田教授側は大阪府には何も連絡しないまま古墳を一般公開し、一週間の公開期間中に二万人もの人が押し寄せるといったことがあったため、大阪府は書面で厳重に抗議もしています。濱田教授は、四月二十六日以来一度も阿武山古墳に行くことができず、志田教授との対立も激しさを増しました。
六月二十日、大阪府で協議が行われ、調査は最小限に留め、棺を元の石室に埋め戻すことが決まると、憲兵隊は御陵の可能性がある古墳というので山道を封鎖し、一般人の立ち入りができなくなりました。事実上阿武山古墳に関し大阪府に主導権が移ったということですが、志田教授は島田製作所に依頼して棺のX線撮影を行います。棺を木製パレットの上に置き、その下にフィルムを置いて、棺の真上から撮影するという計画で、前日に試験的に撮影し翌日本撮影に入ろうとしたとき、憲兵隊の隊長がやってきて、不敬罪に当たるので山を下りるよう言われたため、撮影一行は取るものも取り敢えずその場を離れたそうです。前後関係が不確かですが、撮影を試みたのは二十日の会議の後のようです。
八月、棺は石室に埋め戻され、二年後に志田教授が他界、その後第二次大戦の混乱もあって次第に阿武山古墳の存在が忘れられていきました。
ここまでが昭和初期に阿武山古墳が発見された当時の状況です。現在の常識、感覚では考えられないことが次々に起こっていたのです。
地震研究所の志田順教授は明治九年(一八七六)千葉県佐倉市に生まれ、東京帝国大学理科大学物理学科を卒業後、広島高等師範学校教授、第一高等学校教授を経て京都帝国大学理工科大学に着任し地球物理学を担当、昭和四年(一九二九)帝国学士院恩賜賞を受賞しています。阿武山観測所初代所長になったのは五十八歳のとき。六十歳で亡くなっているので、阿武山古墳発見時は最晩年ということになります。先に挙げた本では、子息の話として、仕事に対しては厳しく、凝り性の性格で、阿武山古墳が見つかってから歴史書を読み出して、鎌足の墓だと証明してみせると意気込んでいたとあります。別の資料ではある弟子が、教授は非常に凝り性で何でも自分でやってしまおうというところがあったとも回想しています。
考古学研究室の濱田耕作教授は明治十四年(一八八一)岸和田藩上級藩士の長男として大阪府岸和田に生まれ、尋常中学校を放校され早稲田中学に転校、第三高等学校を経て東京帝国大学文化大学史学科(西洋史専攻)を卒業後、京都帝国大学文化大学に講師として赴任し日本美術史を講義しますが、助教に昇任後ヨーロッパに留学して考古学を修め、帰国後京都帝国大学考古学研究室の初代教授に就任、日本の考古学研究の発展に大きな貢献をされました。昭和十二年(一九三七)京都帝国大学総長に就任した翌年、病気のため五十七歳で没しています。当時考古学科は京大にしかなかったので、濱田教授は日本における考古学界の最高権威だったということになります。阿武山古墳発見時に現場に駆けつけた末永雅雄氏、梅原末治氏は濱田教授が見出した研究者で、このほか小林行雄氏らと共に考古学における京都学派を形成、梅原氏は濱田教授の後を継いで第二代教授になっています。
志田教授の研究拠点で古墳が見つかったことから、志田教授は阿武山古墳を囲い込み、本来調査を主導すべき専門的立場にいた濱田教授が近づくことさえできない状況に陥りました。挙げ句の果てに十分な調査がされないまま、御陵の可能性があるという内務省からの圧力もあって埋め戻されたというのが、発見当時の阿武山古墳が辿った運命で、これはもう一大事件とでも呼びたい気分です。発見がもっと後の時代だったら、このような悲劇は起きなかったのではという気がしてなりません。
阿武山古墳はそれから半世紀近くの間、史跡に指定されることなく忘却の彼方に押しやられていましたが、再び研究者たちの関心を惹く出来事があり、そこからの専門家たちによる精査研究によって、阿武山古墳の被葬者が藤原鎌足である可能性がさらに高まりました。
…と次の段階に話を進めたいのですが、長くなりますので再発見とその後の展開は次回に譲り、阿武山古墳への道すがら設けられた見晴台で休憩を。
地震観測所に至る途中、眺望が開ける場所が二箇所あります。上の見晴台まで来ると、眼下の高槻市街はもちろん、大阪平野の向こうには生駒・信貴山地から葛城・金剛山地と続く山並や、大阪中心部のビル群も捉えることができます。
下の写真に見えるこんもりとした森のようなものは、太田茶臼山古墳です。
目を凝らせば淀川も見えます。昔は大阪湾も視界に入ったはずです。
大阪平野を一望できるばかりか、生駒や金剛山地の山並の向こうに大和国を見透すことのできる場所が阿武山だということがよくわかります。