去年の十月に継体天皇樟葉宮伝承地について投稿しました。あれからもう一年経ってしまったのかと、月日の経過の速さに驚きますが、そうした現実の時間とは別に、個人的な内的な時空間というものがあるようで、私にとって一年間に訪ねた場所の記憶は、数週間前の出来事のように甦ってきます。現実には一年前に訪ねた継体天皇樟葉宮伝承地からの繋がりで、今回は継体天皇陵と推定されている高槻市にある今城塚古墳(国の史跡)を取り上げます。
継体天皇(即位前は男大迹王)は第二十六代天皇ですが、『古事記』では近江の出身、『日本書紀』では近江で生まれ越前で育ったと記され、いずれも応神天皇五世孫であるとしています。一代前の武烈天皇に後継者がなかったことから担ぎ出され即位したということですが、それまでの大王といえば大和国か山城国、あるいは河内国の出身だったので、継体天皇のような出自は珍しく、そのためにその間に血統の断絶があるのではないか、継体天皇は王位を奪い取り新王朝を作ったのではないかという新王朝説が唱えられ話題を呼びましたが、他方でそれを否定する説も根強いようです。
それはともかく、五〇七年に継体天皇は樟葉宮で即位しました。その後五一一年には筒城宮(京都府京田辺市)、五一八年には弟国宮(京都府長岡京市)へ遷都し、五二六年にようやく大和の磐余玉穂宮(奈良県桜井市)に入っているように、大和に入ったのは即位から二十年近く経ってからのことです。それがまた様々な臆測を呼んでいますが、反対勢力があって大和に入ることができなかったというよりも、継体天皇が自らそうしたという説に惹かれています。ここにあげた樟葉宮、筒城宮、弟国宮はいずれも淀川水系の流域にあります。淀川水系に水軍を集め流域を掌握することで、当寺朝鮮半島で力を付けていた新羅に対抗しようと考えていたのではないかということです。淀川は琵琶湖に通じ、琵琶湖水運を利用することで日本海にも繋がります。もちろん大阪湾から瀬戸内海を通じるルートもあります。また継体天皇は東海地方の豪族とも結びつきがあったといいますから、太平洋のルートもそこに加われば怖いものなしでしょう。ですが実際には、継体天皇は大和に入って間もなく、朝鮮半島に向けた軍を筑紫君磐井によって阻まれるという磐井の乱に巻き込まれ、その平定に苦心し、それから程なくして崩御されました。
継体天皇陵と推定される今城塚古墳があるのは高槻市郡家新町で、広義の淀川流域です。古代の天皇陵が大和国か河内国に築かれているなか、淀川流域というのは継体天皇のみで、そのため一層継体天皇と淀川水系との関わりの深さを思わずにはいられません。
宮内庁が継体天皇陵としているのは、実はこの今城塚古墳ではなく、ここから西に一キロ半ほどの茨木市にある太田茶臼山古墳なのですが、太田茶臼山古墳は出土埴輪から五世紀中頃のものと推定され、継体天皇の時代と合いません。そのため、現在では六世紀前半の築造とされる今城塚古墳が真の継体天皇陵ではないかとされています。宮内庁の管轄を外れたことで、天皇陵である(だろう)にもかかわらず、自由に古墳に立ち入り、散策できるのですから、歴史好きにとってこれほど嬉しいことはありません。
墳丘の長さはおよそ一九〇メートル、内濠、外濠を含めると幅三五〇メートル、長さ三六〇メートルという巨大古墳で、淀川流域では最大です。現在内濠は後方部の周囲にのみ残っていて、それ以外は芝が巡らされ、さらにその外側には遊歩道がついています。古墳の周りを散策したり、芝生で遊んだり、もちろん古墳内にも入ることができます。
墳丘にはこちらの階段から。
墳丘は慶長元年(一五九六)の慶長伏見大地震による地滑りでかなり荒廃したようですが、高槻市が史跡公園として整備したことで、墳丘内を安心して歩くことができます。これだけ見ると、どこにでもある小山の道のようですが、ここに継体天皇が葬られた(かもしれない)のです。大和や河内の天皇陵は研究者でさえほとんど立ち入ることができません。歴史の真実を知ることが、何より大切だと思うですが…。今城塚古墳は、ここが本当に天皇陵なのかと思うほど、開かれ、自由です。でもそのことによって、継体天皇やその時代の歴史に関心の眼が向きます。関心を寄せ、知ることで、好きになるし、誇りに感じることもあります。多くの天皇陵はそうした機会を私たちから奪っています。本当に大切なことは何なのだろうか。ここに来ると、そうしたことを思わずにはいられません。
おそらくここは前方部。隣接する古代今城塚歴史館に三種類の石棺片が展示されています。一つは大阪と奈良の境にある二上山の白石、二つ目は兵庫県の竜山石、三つ目は阿蘇のピンク石で、後円部にはこの三種類の石で作られた三つの家形石棺が収められていたそうで、歴史館にはそれらの石で復元された石棺が展示されています。その大きさに圧倒されると同時に、古墳築造にあたり広範囲から労働力を結集させた大王の地からにも感じ入ります。
継体天皇の力を示すのはそれだけではありません。古墳の内堤に設けられた祭祀場に置かれた夥しい数の埴輪がそれで、埴輪祭祀区域の広さと埴輪の出土点数は日本最大だそうです。現在はレプリカによって当寺の様子が再現されています。
ここで発掘された埴輪は、家形、人形、水鳥形など一三六点以上。祭祀場は東西四つに仕切られ、招魂や鎮魂など葬送儀礼が再現された貴重な例だそうです。
こうした埴輪の中で特筆すべきは、人の背丈ほどもある日本最大級の入母屋造りの家形埴輪です。屋根には神社建築に見られる千木と堅魚木をいただき、堂々とした迫力を感じますし、ここから神社建築が生まれたのがよくわかります。
歴史館には実際に出土した埴輪が展示されています。
現地に立ち、実物を前にすると、墳丘の築造も埴輪の製造も、すべてにおいて想像を超えた労力を結集させて出来たことがよくわかります。
これらの埴輪は、今城塚古墳の北西約一、二キロのところにある埴輪工場で造られていました。この埴輪工場も日本最大級と言われています。次回はそちらへ行ってみることにします。