連日厳しい暑さが続いています。我が家に隣接する雑木林ではいつの間にか葛が繁茂し、樹木を覆い隠すほどになっています。葛のカーテンをめくると、その後ろにはアカマツやコナラ、ミツバツツジなどが控えています。かさを増した雑木林は冬毛を纏った動物のようで、一年で最も重たく感じられます。その密集した木々の奥から響き渡る蝉の声は、途切れることがなく、目からも耳からも夏が次々に飛び込んできて早くも夏バテ気味ですが、先日訪れた洛西の地蔵院で目にした竹は同じ緑でもどこか涼しげで、つかの間の避暑気分を味わうことができました。
地蔵院があるのは、苔寺で知られる西芳寺に近い西京区山田北ノ町です。西芳寺とは西芳寺川によって隔てられています。この川は西芳寺から一キロ半ほど東で桂川に合流する桂川の支流。合流地点から北に五百メートルも行けば松尾大社という立地です。西京区というのは昭和五十一年に誕生した京都市内で最も新しい区ですが、古代この辺りは葛野と呼ばれ平安京以前から秦氏によって開拓が進められた土地です。その名残を示す最たるものは、五世紀後半ごろ桂川に築かれた堰、いわゆる葛野大堰で、これによって桂川に治水が施され嵯峨野や桂川右岸の開拓が進んだことはよく知られています。そうした秦氏にゆかりの神社がこの辺りに集中していて、先にあげた松尾大社のほか蚕ノ社、大酒神社などがあります。少し距離はありますが伏見稲荷も秦氏に縁の神社ですし、弥勒菩薩で有名な広隆寺も秦氏が氏寺として創建したと伝わります。秦氏は殖産興業に尽力した氏族で政治的な関心は低かったようですが、何しろその勢力は大きく、藤原氏との間に婚姻関係が生まれ、それが平安京遷都の遠因にもなっています。
平安京遷都の初代造宮大夫だった藤原小黒麻呂は、遷都先として山背国葛野郡宇太村を視察したように平安遷都の推進役でしたが、小黒麻呂の妻は秦島麻呂の娘だったことから、秦氏の勢力圏に都を遷そうと画策したことがうかがえます。そこに期待されたのは、秦氏の殖産興業における力と既に蓄えていたであろう膨大な資金力でした。
ところでその藤原小黒麻呂は藤原北家の氏族で、平安時代後期北家の支流の一つ勧修寺流の藤原顕隆が祖となり葉室家が派生しました。その葉室家が現在の西京区の北東に別業を営み、その跡が現在浄住寺になっています。今回取り上げる地蔵院は、浄住寺のすぐ近くにあり、元は鎌倉時代の公卿藤原家良の山荘があった場所と言われています。藤原家良は藤原定家に学んだ歌人ですが、家良もまた藤原北家の流れを汲んでいます。
藤原家良亡き後、当地は天台宗の寺になったようですが建武の兵火で消失、貞治六年(一三六七)室町幕府の管領細川頼之が夢窓国師の弟子である碧潭周皎(宗鏡禅師)に帰依し、土地を買い取って寄進し創建されたのが、現在の地蔵院です。実質的な開山は宗鏡禅師ですが、禅師は夢窓国師を開山と仰ぎ、自らは二世と名乗っています。細川頼之は足利義満を補佐し室町幕府の確立に尽力したことで知られますが、和歌や詩文を愛好し禅宗にも厚い信仰を寄せていました。
山門をくぐり竹林を横に見ながら進んだ先にある本堂は、昭和十年の再建。ここには最澄作と伝わる地蔵菩薩像が御本尊としてお祀りされているほか、地蔵院の歴史を伝えるように夢窓国師、宗鏡禅師、細川頼之の木像が安置されています。
地蔵院は竹の寺と呼ばれますが、苔の美しさも格別です。
細川頼之が土地を寄進したことで創建されたのが地蔵院ですが、地蔵院にはいつどのくらいの期間を過ごされたのかなど、詳しいことはわかりません。ちなみに、方丈前庭の枯山水庭園は宗鏡禅師によって造られた頼之公遺愛の庭と伝えられています。
樹木で覆われわかりにくいのですが、十六羅漢の修行の様子を表した大小様々な石が配されており、十六羅漢の庭と呼ばれます。
石だけを際立たせるというよりも、繁茂した草木で石を包み込んでいるのがこの庭の魅力です。方丈の片隅にはアップライトピアノが置かれていて(普段は仕切りの奥にあるのでピアノは見えませんが)、申し込みをすれば時間を限って弾く(お寺では奉納と言っています)ことができるのだそうです。お寺に流れるピアノの音色はどんな感じでしょうか。この庭の自然を前にしたら、気持ちよく奏でることができそうです。
この庭、宗鏡禅師の作とありますが、地蔵院は応仁・文明の乱の兵火に遭い灰燼に帰し、江戸時代に再興されており、方丈は貞享三年(一六八六)の再建とのことですので、庭もその時のものでしょう。
細川頼之公ということでは、本堂南にはお墓があります。宗鏡禅師と共にここに眠りたいという遺志により、老木の下に墓石が並んでいます。老木は枯れてしまい切り株があるのみですが、手前にある細川石と呼ばれる大きな石が頼之公のお墓です。お墓の後ろには、細川護熙氏が寄進された若い枝垂れ桜が葉を茂らせています。数十年後にはこの桜が二人のお墓を包み込むように大きくなっていることでしょう。
話が前後しますが、地蔵院として創建された後は、北朝の三天皇(崇光、後光厳、後円融)の勅願寺となり、最盛期には二十六の末寺を擁する巨刹となり、諸国に五十四箇所もの領地を持ったそうです。それが先ほど触れたように応仁・文明の乱の兵火で灰燼に帰してしまいます。江戸時代に再建されはしたものの、その規模はかつてのものには及びませんでした。
現在の地蔵院にかつての巨刹の面影はなく、西山の麓にひっそりと佇む小寺の趣きですが、それが何よりの魅力に感じられます。
古い歴史が堆積した土地に、宗派や形を変えながらも存在し続け、現在に至っている。その場所に立っているだけで、歴史の流れの中の一員になれたような気持ちになります。
なお、一休さんで知られる一休宗純禅師は、地蔵院近くの民家で誕生した後、六歳で安国寺に移るまでの間母と共に地蔵院で過ごしたと伝わるそうで、境内には母子の石像がありました。
西山の麓は平安時代以降、広大な竹の群生地を擁してきました。地蔵院の竹林もその名残なのかもしれません。帰り際、竹の葉が風にそよぎ、かすかに境内の静寂が破られました。