先々月、大阪狹山市にある狭山池を取り上げました。狭山池は発掘された木製の樋から飛鳥時代七世紀頃の築造と言われていますが、記紀には崇神・垂仁朝に造られたものとして記されています。実際にそこまで遡らせることができるのかはわかりませんが、記紀にあるような国家主導の大規模な開発が大阪の平野部で行われたことは確かです。
『日本書紀』崇神天皇六十二年秋七月を繙くと、狭山池以外にも計画的にいくつかの池が造られたことが記されています。
詔して曰わく、「農は天下の大きなる本なり。民の恃みて生くる所なり。今、河内の狹山の埴田水少なし。是を以て、其の国の百姓、農の事に怠る。其れ多に地溝を開りて、民の業を寛めよ」とのたまふ。
冬十月、依網池を造る。
十一月に、苅坂池・反折池を作る。一に云はく、天皇桑間宮に居しまして、是の三つの池を造るといふ。
ここにある三つの池はどれも現存せず、苅坂池と反折坂に至っては場所さえも不明です。依網池は狭山池から北北東に十キロほど、現在の大阪市住吉区庭井にあったと考えられています。
依網池の築造については上に引用した『日本書紀』の崇神天皇の段のほか、推古天皇のところでも見られます。
推古天皇十五年のところには次のような記述があります。
是歳の冬に、倭国に、高市池、藤原池、肩岡池、菅原池作る。山背国に、大溝を栗隈に掘る。且河内国に、戸苅池・依網池作る。亦国毎に屯倉を置く。
他方『古事記』では中つ巻崇神天皇の段に、「また、この御世に、依網の池を作り、また軽の酒折の池を作りき。」とあり、さらに下つ巻仁徳天皇の段にも「また、秦人を役して茨田の堤また茨田の三宅を作り、また丸邇の池・依網の池を作り、また難波の堀江を掘りて海に通し、また小椅の江を掘り、また、墨の江の津を定めたまひき。」とあります。
このように依網池の築造について『古事記』と『日本書紀』の間でも異なり、『日本書紀』の中でも異なる時代に複数回取り上げられています。築造の時代を、実際よりもかなり古い崇神朝としたことで、実際に作られた時代に近いところの記述で再び取り上げることになったということかもしれません。
依網池は西除川の水を取り込み、池周辺の農地の灌漑に用いられたと考えられています。西除川は大阪南部、河内長野の山中に発する川で、狭山池に一端流れ込んで北上し最後大和川に合流するように、狹山池とも関わりの深い川です。依網池も狭山池とそう変わらない時代に造られたのではないかと考えられているようですが、依網池は江戸時代に大和川の付け替え工事をする際にかなり縮小され、最後に残っていた庭井の池と呼ばれた池も昭和四十年代に消滅しましたので、狭山池のような調査は不可能です。現在は大和川の近くに冒頭の写真のような石碑が立っているだけになりましたが、推定面積は三十から六十ヘクタールといいますので、狭山池と同規模かそれ以上の池だったことになります。下の写真、左の空き地に依網池の石碑が立っています。古代この一帯は池でした。
なお、依網池の開発と同じ頃、依網屯倉も設置されています。屯倉は朝廷の直轄農地です。池の造営によって農地が開発されていくにあたり、そこが朝廷の直接経営下に入ったということで、狭山池同様に当地の重要性がうかがえます。依網という名から、河内国丹比郡依網郷(現在の松原市天美地区周辺)や摂津国住吉郡大羅郷(現在の大阪市住吉区大庭周辺)がそれに相当すると考えられています。現在は大和川が両地区の間を流れていますが、依網池が消滅する原因にもなった川の付け替えによってそうなったもので、かつての地形は現在とは異なり、一続きの広大な農地が拡がっていたのでしょう。松原市には三宅という地名が今もあり、古代の屯倉の歴史を伝えています。
ちなみに依網屯倉については、『日本書紀』仁徳天皇四十三年に「依網屯倉の阿弭古、異しき鳥を捕りて、天皇に献りて曰さく」というところに出てくるほか、先に引用した中にもあるように推古天皇十五年に「亦国毎に屯倉を置く」とあります。ちなみに阿弭古は古代の姓(大王が有力氏族に与えた称号)で、我孫、吾孫などとも表記されます。「依網屯倉の阿弭古」は屯倉を管理していた依羅氏です。依網池の石碑がある場所から北西に六、七百メートルほどのところに我孫子という地名があります。御堂筋線では「あびこ」、JR阪和線では「我孫子町」という駅名にも見られます。この地名に見られる「あびこ」、網を引く漁師を意味する網子に由来を求める説などがありますが、「依網屯倉の阿弭古」に求めるのはどうなのでしょうか。
依網屯倉については、『日本書紀』皇極天皇元年にも見え、そこには「河内国の依網屯倉の前にして、翹岐等を召びて、射猟を観しむ」とあり、依網屯倉に朝廷の猟場があったことがわかります。かつて依網屯倉の中心だったところには屯倉神社があります。そちらにもいずれ足を延ばすつもりですが、次回は依網屯倉の管理に関わった依羅氏が奉斉したと考えられる大依羅神社を取り上げます。