晴天のある日、五月山に行ってみました。ドライブウェイには何カ所か展望台があり、それぞれ違った眺望が楽しめます。北摂山系と猪名川の風景なら五月台展望台、大阪平野を経て南にそびえ立つ梅田のビル群と生駒山地なら日本平展望台や五月平展望台という具合で、私が暮らす町も見えていますし、霞んでいなければ大阪湾も捉えることができます。お正月に登った交野山も視界に入っていると思うと、遠くの山並にも目を凝らして見入ってしまいます。
交野山に行ったときにも感じたことですが、大阪は大都市とはいえこうして見ると肉眼でその範囲を捉えることのできる広さなのだということに、改めて気づかされます。今は建物で埋めつくされている眼下の風景も、古代なら丘陵や平地、川の存在がよりはっきりと目に飛び込んできたはずで、どこをどう通っていけば目的の場所に安全に行くことができるのか、どこなら安全に身を隠すことができるのかといったことなどが、こうした見晴らしのよい山で話し合われていたかもしれません。この五月山の南西麓にあるのが先日投稿した伊居太神社で、参道からは縄文時代のものと思われるサヌカイトの石鏃が見つかっていますし、それをさらに遡る可能性のある時代の石器も出土しています。また弥生時代には五月山の山頂から中腹にかけて高地性集落があったというように、五月山には非常に厚い歴史の層が堆積しています。北摂山系の南西の突端にあり、すぐ西には猪名川が流れ大阪湾に通じ、山からは大阪平野が一望できるという場所ですから、古代人が好まないわけはないだろうということが、ここに来ると身を以て感じられます。
さてこの見事な眺望の得られる五月山の南麓で、古墳時代前期、四世紀頃のものと思われる古墳が二つ見つかっています。
一つは伊居太神社の東八百メートルほどのところにある娯三堂古墳です。
直径二十七メートルほどの円墳で、墳丘の中央には竪穴式の石槨があり、明治時代に鏡や玉類、刀、鉄斤、土器などが出土したそうです。前期古墳で土器を副葬しているのは珍しいとのこと。
五月山の登山道脇にあり、一見古墳とわかりませんが、古代当地を治めていた首長の存在を現代に伝える大切な遺跡です。
古墳時代前期の二つ目の古墳は池田茶臼山古墳で、娯三堂古墳から南東におよそ五百メートルの池田市五月丘にあります。現在は静かな住宅地ですが、急な坂道からもわかるように、五月山から続く五月丘丘陵の鞍部に造られています。
茶臼山古墳は全長約六十二メートルの前方後円墳。前方後円墳としては中規模ですが、猪名川左岸の首長墓としては最大にして最古とされています。昭和三十二年の区画整理で取り壊される予定だったところ保存運動が起こり、消失を免れました。大阪府の史跡に指定されたことから最近整備工事が行われ、真新しい公園のようになりましたが、見通しがよくなったことで目を疑うものが…。上の写真にも見えますが、前方部の脇に銅像が立っています。驚いて近づいてみると、武田義三君寿像とあります。武田義三氏は昭和二十二年から五十年まで池田市長を務めた人で、五月山公園やドライブウェイを整備したり上下水道を整備したりするなど現在の池田の基礎を築いた方のようですが、四世紀の首長の墓が築かれた場所になぜ銅像を設置することになったのか、経緯はわかりませんが、私の感覚からすると信じがたいことです。
それはともかく、後円部の階段を上がると五月山をはじめ周囲が一望できます。
上の写真は北西方向、下は前方部を経て南東方向です。五月山は指呼の間に見えます。立っている後円部には竪穴式石槨が設けられていたとのことで、娯三堂古墳と共にその構造の詳細がわかる貴重な遺跡です。『古墳時代の猪名川流域』によると、池田茶臼山古墳と娯三堂古墳の竪穴式石槨は、墓壙の底を平坦に整え木棺を据える部分を粘土で覆い木棺の周囲に礫を巡らせるという構造で、とくに墓壙の底を平坦にするというのは、他地域にはない特徴だそうです。池田茶臼山古墳は調査以前に盗掘に遭い、玉類、鉄剣などがわずかに残っていただけですが、墳丘の表面は葺石で覆われ、円筒埴輪が並んでいたことがわかりました。おそらくその様子は猪名川からもしっかり見えたでしょう。