六月になったとたん、急に蒸し暑くなりました。急激な気温の変化は、このところの巣ごもり生活で体力が低下した体には堪えますが、気温が三十度近い日もエアコンは使わず、窓を開け放して外の風に涼を取るようにしています。私の書斎は、丘陵の名残の緑地に面していて、風になびく藤蔓に手を伸ばせば届きそうな距離にあります。そのため窓を開けていると鶯のさえずりが頭上から降ってくるようですし、風が少しでも吹くと、木々が一斉に葉を揺らし、波が打ち寄せるような音がします。町中にいたらさほど気に留めない程度の風を、森は体内に大きく吸い込み、木の葉や枝の助けを借りて、数倍にして吐きだしているのでしょうか。それは声楽家が体を通して美声を響かせるのにどこか似ています。
いずれにしても、夏に向かって急いでいる今ほど、風を心地よく感じるときはありません。
風に吹かれていたら、龍田大社を取り上げたくなりました。訪れたのは数年前ですが、そのときもちょうど今ぐらいの時期で、境内を心地よい風が吹き抜けていました。
龍田大社が鎮座するのは、前回投稿した信貴山朝護孫子寺から直線距離にして南東に二キロ半ほど、昔は生駒山地(信貴山)から連続する山地の南東端だったと思われる高台で、すぐ南には大和川が流れています。JR三郷駅からすぐなのに、大社までかなり急勾配の上り坂を歩かなければならず、神社に着くころには体中が火照り汗も流れています。朱色の鳥居をくぐり、拝殿でお詣りを済ませたとき、背後の山から風が吹き下りてきて、汗をぬぐっていったあの心地よさは、いまも鮮明に記憶に残っています。生駒山地の端に位置し、大和川の渓谷に向かって下っている地形が、ちょうどよい風の通り道になっているのかもしれません。
実際、ここは地形的にみて、西からの風が通り抜けるのに都合がよかったようです。北から連なる生駒山地は大和川で途切れますが、川の南には標高千メートル級の金剛山地が一層の険しさをもって東西の境界となって聳えています。昨今の異常気象では、東から台風が来ることもありますが、それはかなり希なことで、台風といえば大抵南西方向からです。台風に限らず、風は金剛山地に行く手を阻まれ、山の切れ目である大和川の渓谷を突破口にして北上し、奈良盆地に被害をもたらしたことが想像されます。
龍田大社の現在の御祭神は、天御柱大神と国御柱大神ですが、祝詞ではそれぞれ志那都比古神、志那都比売神と呼ばれています。志那都比古神は『古事記』の神生み神話において、伊邪那岐と伊邪那美の間に生まれた風の神で、これは『日本書紀』でも吹いた息から生まれた級長戸辺命という風の神として記されています。ちなみに『日本書紀』では級長戸辺命の別名を級長津彦命としている一方で、級長戸辺命は女神という説もあります。いずれにせよ、シナツヒコとシナツヒメという男女対の風の神様をお祀りするのが龍田大社です。
作物が安定的に収穫できることは国家の安泰に繋がります。壬申の乱を経て中央集権国家を整えていくにあたり、風の吹き抜け口であるこの場所に風の神様をお祀りし、風を鎮める神事を執り行うことは重要なことでした。しかもここは、交通の面でも重要でした。大和川に沿いながら龍田峠を越える道を龍田道あるいは龍田古道と言いますが、この道は古代大和国と河内・摂津を結ぶ峠道の中でも高低差が少なく、様々な歴史の場面にも登場しています。壬申の乱のときには兵が配され、その後大坂山と共に関が置かれたように、軍事的(政治的)にも重要な場所でしたから、天武天皇が体制造りにおいてここに重要な神様をお祀りしたのは必然といえそうです。
現在龍田大社の拝殿はご覧のように四方から風が吹き抜け、実に開放的です。
その奥の赤い鳥居の先が本殿で、本殿正面には天御柱大神と国御柱大神、その手前の両側には摂社と末社がお祀りされています。
上の写真、右に見えるのが末社、左に見えるのが摂社で、摂社には龍田比古命と龍田比売命がお祀りされています。この龍田比古命と龍田比売命が、この土地における原初の神様ではないかと想像しています。毎年七月に風を鎮め豊作を祈願する風鎮大祭が行われますが、風鎮大祭は天武天皇の時代に整えられ、廣瀬大社の祭祀と共に国家主導で行われてきましたので、中央との結びつきの強い神社なのですが、そうなる以前に、ここに吹く風に神を感じた人の歴史もありました。
龍田大社から南西に三キロほどの青谷というところに、金山彦神社が、そこから北に一キロほどの雁多尾畑に金山媛神社があります。金山彦は神生み神話において、伊邪那美が火の神を生む際やけどを負って苦しみ嘔吐した中から生まれた神とされ、金属が溶けて流れる様を表すことから、金属の神として製鉄に携わる人たちに信仰されてきました。事実、このあたりから鉄滓や鉄塊が見つかっていますし、雁多尾畑には製鉄に携わる人たちが暮らした集落跡とされる畑千軒がありました。古代のたたら製鉄では、炉の温度を上げるため鞴から送る風が重要です。龍田大社を風の神として信仰するようになった原初に、この地域における製鉄の歴史があったことを心に留めたいと思います。
社伝によれば金山彦神社も金山媛神社も、元は「嶽山の嶺」にあったとのことで、その確かな場所はわかりませんが、おそらくさらに北にいった標高の高いところでしょう。そう思って地図を辿っていくと、龍田大社大社本宮御座峰、すなわち龍田大社の神様が最初に降臨されたとされている場所を見つけました。龍田神社の風の神様が、製鉄に関係するという仮説に、確信に近い思いを抱いた瞬間でした。そういえば、気持ちのよい風に吹かれた龍田大社の社殿は東を向いています。つまり西の御座峰を御神体とし、麓に社殿が造られたのが龍田大社ということです。
製鉄の歴史に関連して、もう一つ。風鎮大祭では神事の後に風神太鼓や河内音頭などを奉納し、締めは手筒花火の奉納です。浜名湖から愛知県の三河地方にかけて見られる手筒花火に似て、天に向かって手元から火花が吹き上がる様は大変迫力があります。もしかすると風鎮大祭におけるこの花火の奉納は、古代製鉄の歴史を伝えるものなのかもしれないと思っています。
龍田道は時代によってルートが変わりましたし、山中を抜けて大和川を越えるまでには複数の道があります。以前高井田古墳の裏から急な上り坂を歩きかけたところ、坂がきつい上に道が複雑でわかりにくく、一人で歩くのに限界を感じ途中で戻ってきたということがあります。龍田周辺は古くから多くの歌に詠まれてきた土地でもあります。改めて龍田古道に挑戦してみたくなりました。