春には桜や柳が川辺を彩り、夏には川床が涼を呼び、秋には赤や黄に色づいた木々が水面を染め、冬には渡り鳥が羽を休める。京都の東を流れる鴨川は、京都の暮らしを支えるのと同時に、京都の文化風土の形成にも欠かせません。この川がなかったら、京都は全く違ったものになっていたでしょう。鴨川に限らず、川は水害をもたらす危険をはらんでいますが、百年単位で見れば、水害の危険より、川によってもたらされる恵みのほうが多いように思います。
私は京都に来ると、必ずといってよいほど、鴨川の流れに眼を向けます。今日はいつもより水量が多いなとか、今日は水が青く見えるなとか、京都に足を踏み入れるときの挨拶代わりに、鴨川の様子をうかがうのが習慣になっています。
そんな鴨川源流の雲ヶ畑に、飛鳥時代の白雉元年(六五〇)役行者によって開かれたと伝わる志明院があります。正式名称は岩屋山金光峯寺志明院。平安時代弘法大師空海によって再興されたという真言宗のお寺で、不動明王を御本尊としています。(鴨川は髙野川との合流点より北は賀茂川と表記されますが、平安時代には区別がなかったようですし、現在の河川法では鴨川に統一されていますので、今回のブログでは鴨川とします。)
雲ヶ畑は京都市の中心から北に十五キロほどの山間の地です。地名の由来として、昔岩屋山に薬王菩薩が現れ、病人を救うために山々に薬草を植えたところ、山上は花が咲き乱れて芳香に満ち、紫雲が棚引くようだったという伝説によるとするものや、元は出雲族の暮らす出雲ヶ畑だったものがいつしか雲ヶ畑になったという説があります。
以前投稿した毘沙門堂のところでも書いたように、平安京以前の京都には出雲族の存在があり、その名残が地名として残っていますから、源流とされる所に出雲族の足跡が残されていても何ら不思議ではありません。
それはともかく雲ヶ畑は平安京造営の際に木材を供給する杣山となり、多くの木材が供出されました。また木材だけでなく、薪炭や鮎なども雲ヶ畑から献上され、豊かな森林から生まれた鴨川の水は禁裏御用水として用いられていたように、平安京の時代から朝廷との結びつきが強い土地でした。
朝廷との結びつきということでは、志明院も同様で、御本尊の不動明王は淳和天皇の勅願で弘法大師によって作られたものであるとか、鉄筋舞台造りの岩窟にある根本中院の不動明王も宇多天皇の勅願で菅原道真によって作られたものであるとか、さらに室町時代には後奈良天皇から宸筆を賜ったといったことが伝えられていますが、これは志明院が平安京を潤す鴨川の源流にあって水神さまをお祀りしているからでしょう。
雲ヶ畑は若狭と京都を結ぶ鯖街道の経由地だったので、山深い割には古来往来がありました。今ですと市内から車で三十分ほどで雲ヶ畑の集落に入ります。志明院までも車道が整備されていますが、北山の奥深さ、鴨川の源流の音を感じたくもあり、祖父谷川との合流地点の岩屋橋付近に車を駐め、川に沿った山道を歩くことにしました。
川の流れに時々眼をやりながら、舗装された道を進むこと三十分ほど。市内は三十五度近い暑さでしたが、この辺りは五度ぐらい低いのではないでしょうか。歩いて汗だくになっても、立ち止まったときに吹き抜ける風が爽やかで、すっと汗が引いていきます。
やがて道は志明院に突き当たり、駐車場奥の草に覆われた石段の上に建物が見えてきます。
ここを上がった先に山門(冒頭の写真)があるのですが、山門から先は写真撮影が禁止のため、志明院の写真はこれ以後はありません。写真を撮ることが常態化していた私には、こんなに自然豊かですばらしいところを写真に残せないことが最初残念でしたが、参拝を終えて山門のところに戻ってきたときには、全く逆の気持ちになっていました。久しぶりに文明の利器に頼らない時間を持ったことで、境内に息づく自然に意識を集中させることができたのです。
山門前で汲ませていただいた湧き水の美味しいこと、山の水分を含んだみずみずしい苔や、山から吹き下りる風、緑灰に怪しく輝く切り立った巨岩、洞窟の上から一滴一滴したたり落ちる清水、その洞窟のひんやりした空気…。それらはいまも、新鮮な記憶として私の中に留まっています。
迫り来る巨巌。そこに潜り込むように、洞窟奥に足を踏み入れ、薄暗いお堂にお詣りを済ませると、少し離れたところからその巌壁に眼をやりました。すると巌は緑色に怪しく光り、しっとりと濡れています。しみ出してくる清水は地球の体液で、樹皮のように重なる巌は地球の皮膚のように思えてきます。志明院の自然は蠢いている、地球は生きているのだ、ということを強く実感した瞬間で、ここにいると自然というより地球あるいは宇宙と触れあっているような気持ちにもなりました。
新聞記者時代の司馬遼太郎さんが志明院に泊まった際、夜中に物の怪に出会ったということをエッセイに書かれています。障子や襖を叩いたり、屋根の上で四股を踏んだりする音がしたそうですが、さもありなんという気がします。
実際には風や動物が歩き回る音だったのかもしれませんが、明るいうちに感じた印象が夜の暗闇の中で一層強まり、風の音が風の音に思えなくなるということはありえたでしょう。実際物の怪がいたのかもしれませんけれど。
自然が蠢いている感覚は自然豊かな場所ならどこででも得られるものではありません。熊野などはまさにそういう気持ちにさせられる代表的な土地で、私は志明院の境内を歩きながら、熊野を思ったりもしました。
歌舞伎十八番の一つ「鳴神」がここを舞台とされたのも、この土地が持つ異界的な雰囲気によるのかもしれません。
ちなみに「鳴神」はおおよそ次のような筋で、境内には鳴神の岩屋があります。
高僧鳴神上人が三千世界の竜神を洞窟に封じ込めたことから、雨が降らなくなってしまい、困った朝廷は雲の絶間姫という美女を遣わしたところ、上人は色香に惑わされ法力を破り、竜神を封じ込めていた洞窟の注連縄を切ってしまいます。すると竜神が天に昇って雨が降り、上人は騙されたと知って髪を逆立てて荒れ狂い、姫の後を追っていきました。
影響力のある人がSNSに写真を投稿すれば、訪れる人が増えるかもしれませんが、そのことでお寺の自然が荒らされる可能性があります。鴨川の源流域にあって水の神さまと共に歴史を刻んできた志明院は、自然に抱かれた信仰の聖地を守ることを選んだのです。ですから、私たち参拝者はそれに沿ってお参りをするしかありませんが、山門をくぐってすぐのところで、去年の台風で倒壊し再建されることなくそのままになっている鐘楼を見たときは、なんとかならないものだろうかと胸が痛みました。参拝者がなければ再建資金も集まりません。でもより一層多くの人を呼び込む方法として訪れた人たちによる情報拡散には頼らない。ご住職の田中真澄さんは、以前鴨川にダム建設の話が持ち上がったとき、先頭に立って反対運動をされ、建設中止に導かれました。その経緯はご自身が『ダムと和尚』(北斗出版)という本にまとめられていますが、田中さんの鴨川上流の自然を守ろうとする強い使命感と情熱は並大抵のものではなく、それが多くの人を動かしダム建設を中止することができたということがありますので、台風による被害からの復旧も、きっと力を尽くされていることでしょう。
五月頃にはシャクナゲが見事だそうです。花に彩られると、境内の雰囲気もまた違って見えるでしょう。
ちなみに上の写真は岩屋橋付近の祖父谷川です。鴨川には支流がいくつもあり、こちらの上流を源流とする説もあるようですが、何にせよ鴨川上流の水辺は清々しい空気に包まれていました。