御破裂山を下り、再び境内へ。十三重塔の東には藤原鎌足をお祀りする本殿があります。
桜と楓のトンネルをくぐり、そちらに向かいます。
楼門から奥をのぞくと、向かって左に本殿、右に拝殿が見え、透廊が本殿を取り巻くように東西に巡らされています。
本殿へのお参りは、拝殿に上がり、中からとなります。この日は神幸祭を終えたばかりだったようで、拝殿内には御神輿などまた片付けられずに置かれ、華やかな祭の余韻を伝えていました。
こちらが本殿。大宝元年(七〇一)の創建で、当初は精霊院といいました。現在の建物は嘉永三年(一八五〇)に造り替えられたものです。東照宮を思わせる極彩色の建物で、三間 社隅木入春日造という珍しい造りです。
懸造りの拝殿は永正一七年(一五二〇)の再建。妙楽寺の時代は護国院といいました。
吊り灯籠のある透廊を歩きながら眺める景色は格別です。
本殿の東西には宝庫があります。こちらは東の宝庫。校倉造りの宝庫には伝来の名宝が納められていましたが、現在それらは博物館に寄託しているそうです。
本殿へのお参りの後、西に進み、蹴鞠の庭へ。談山神社(一)で触れた神廟(十三重塔)と権殿から一段下がった場所になります。
中大兄皇子と中臣鎌足は飛鳥寺の庭で行われた蹴鞠の会で出会ったことにちなみ、神廟を望むこの場所も蹴鞠の庭と名付けられました。四月二十九日にはここで古式ゆかしく蹴鞠祭が行われるとのこと。
向かって右が神廟拝所(写真上)、左が末社の総社拝殿(写真下)です。
神廟拝所は(一)の創建のところで触れたように、鎌足の長子定慧により、白鳳八年(六七九)に創建された講堂だったもので、阿弥陀三尊像が御本尊としてお祀りされていました。現在の建物は寛文八年(一六六八)の再建、阿弥陀三造像は明治の神仏分離の際安倍文殊院に移され、現在は釈迦三尊像としてお祀りされています。(手の部分が造り替えられたのでしょうか?)十三重塔の正面に仏堂を配する寺院時代の伽藍配置が見てとれます。
神廟拝所は内部を拝観できます。壁面には天女と羅漢が描かれ、正面には鎌足の御神像がお祀りされています。
この日は神廟拝所前の桜が満開でした。また下は神廟拝所を上から見下ろしたもので、濃いピンクは桃でしょうか。一月前にどこか寂しげな感じを抱いたことが嘘のように、境内が華やいでいます。
総社拝殿の裏に回ると、総社の本殿があります。延長四年(九二六)の創建、国内最古の総社です。談山権現の勅号が下賜され、妙楽寺や聖霊院(現本殿)、総社の神仏習合が進んだようです。ここにお祀りされているのは天神地祇、八百万の神々です。寛文八年(一六六八)に造り替えられた建物ですが、境内で最も古びて見えます。
神仏習合の話になったので、(一)で触れなかった平安から近世までの歴史を簡単に辿ってみますと、総社の創建後、比叡山延暦寺の末寺となり天台宗の寺院として藤原氏と共に発展しますが、興福寺との関係は悪く、焼き討ちに遭ったこともあります。平安時代の末には青蓮院の末寺になっています。鎌倉時代に入っても、興福寺の焼き討ちに何度も遭い、争いが絶えませんでした。室町時代には幕府軍と対立、全山が焼失したこともあります。それだけ多武峰の力が強かったということで、豊臣秀長が大和郡山に入るに際し、多武峰の僧徒に武器の提出が命じられ、寺領を与える代わりに大和郡山に寺を移されます。こちらは新寺とか新多武峰と呼ばれ、元の旧寺と対立するようになります。御神像だけは多武峰に残されましたが、秀長の体調悪化により大和郡山に遷されたことがあります。その際城内で奇怪な現象が起こったことから、鎌足の祟りではないかと恐れられ、御神像は元の多武峰に戻されています。徳川家康により寺領が認められ、社殿が造営されていったことで、現在のような境内になりました。現在境内にある社殿の多くが江戸時代の再建なのは、そうした経緯によります。その多くが重要文化財に指定されています。
一説によると藤原鎌足が生まれたのは大和国高市郡、明日香村の大原神社です。談山神社の多武峰から万葉展望台を経て明日香方面に抜けた辺りで、多武峰からは徒歩圏内です。もし鎌足が大原神社付近で生を受け幼少期をそこで過ごしたのだとしたら、多武峰は距離的にも心理的にも近しい場所だったのではないでしょうか。そう思うと、日本の古代史の転換点となった重要な談合を、熟知した場所で行ったのもわかるような気がします。
先月友人と談山神社にお参りした後、明日香まで歩きました。ところが通る予定だった万葉展望台とは違う道を歩いてしまい、大和三山から生駒まで拡がる見事な眺望を見損なってしまいました。この道は、もしかすると鎌足も歩いた道だったかもしれず、東大門からの参道と万葉展望台を通る山道を歩くためにも、やはりまたここを訪ねなければと思っています。今度は季節を変え、秋がいいかもしれません。