先月初め、友人と多武峰の談山神社を訪れてから早一月半以上が過ぎました。三月上旬、芽吹きの気配はまだなく、剥き出しになった木々の枝の隙間から透けて見える曇り空は冬の顔をしていました。四季折々いつ訪れてもその時期ならではの良さがありますが、談山神社についてはやはり桜や紅葉が似合う気がします。談山神社のシンボル十三重塔をはじめ、境内に点在する数多くの社殿は朱色を湛えどれも立派でありながら、どこか境内に物寂しい雰囲気が漂っているように感じるのです。気のせいかもしれませんし、古い歴史が醸す古色の気配のためかもしれませんが、その雰囲気を包み隠してくれるのが桜や紅葉で、自然の色彩は建物に溶け込み、拝観するこちらの気持ちも穏やかに落ち着きます。友人と訪ねた談山神社の思い出と重ねながら、散り初めの境内を歩きました。
奈良県桜井市の南部、明日香の東に山が連なっています。峰が多いので多武峰と呼ばれるこの連山は、古くから信仰の対象として崇められ、多武峰に下った神が尾根を伝って端山の香具山に至ると信じられてきました。そんな多武峰の山間に談山神社はあります。桜井駅を出たバスは町を抜け寺川の流れに沿って山に入っていきます。程なく屋根付きの木造橋が見えてきます。徒歩で参拝していた時代、ここが多武峰の入り口でした。
バスはそこからアスファルトの道をうねうねと曲がりながら上がっていきますが、写真下の東大門から続く杉並木が表参道です。表参道には樹齢数百年の杉の大木が続いています。こういう道を歩いていたら、聖地の懐に入っていく感じがするのではないでしょうか。あいにく準備不足で通過してしまい、もう少しきちんと調べていたら、昔からのこの参道を歩くことができたのにと後悔しきり。またお参りするきっかけを残してきたと思うことにしています。
バスを降り、ほとんど散ってしまったうすずみ桜の老木の前を通り少し下ると一の鳥居前に出ます。
背後には談山(多武峰)と御破裂山。石段の参道が山々に向かって駆け上がるように延びています。石段が途切れたところで、左右に分かれる道があり、神廟拝所や東殿(恋神社)に通じていますが、そちらへは後ほどお参りすることにして、まずは石段を上りきり、十三重塔を目指します。
先月は石段を上がったらすぐ全景が目に入った十三重塔も、いまは新緑で半分ほどが隠れています。
さらに近づくと、新緑と散り初めの桜に包み込まれるように聳える塔が全容を現しました。高さ約十七メートル、享禄五年(一五三二)の再建で、現存する唯一の木造の十三重塔(国の重要文化財)です。塔の上の相輪は通常九輪ですが、この塔は七輪です。なぜそうなのかはわかりませんが、初層の屋根が大きく、二層から上は小ぶりですっと上に伸び上がり、頂の相輪が天と繋がっているようなその姿はとても美しいものです。
談山神社の歴史はこの塔から始まっています。『多武峰略記』によると、藤原鎌足は摂津国の阿威山に葬られていましたが、白鳳七年(六七八)唐から帰朝した長子の定慧が多武峰に改葬し墓の上に十三重塔を、その数年後に講堂を建て妙楽寺としたのが始まりで、大宝元年(七〇一)には神殿も造られ鎌足の御神像がお祀りされたとのことです。つまり始まりは寺院で、明治の神仏分離までは談山神社ではなく多武峰妙楽寺といいました。ちなみに最初に葬られたという摂津の阿威山は、以前投稿した阿武山古墳が比定されています。
多武峰は生前鎌足にとって縁の土地でした。飛鳥時代、皇極天皇の時代に権勢をふるった蘇我入鹿の暴走を止めるべく、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が藤の咲く頃多武峰で極秘の談合を行いました。それを受け、皇極天皇四年(六四五)飛鳥板蓋宮の大極殿で入鹿を暗殺(乙巳の変)、蘇我宗家が滅びると中大兄皇子は体制を刷新し、改革を断行します。有名な大化の改新です。鎌足はそのときの功績により内臣に任命され、最晩年には天智天皇から大織冠を授けられ藤原の姓を賜ります。鎌足にとってここは出世の大きなきっかけとなった場所だったのです。談合が行われた多武峰は談山神社の背後にある山です。そこが大化の改新に通じる談合の地ということで、談峯・談い山・談所が森などと呼ばれるようになりました。談山神社の談山もそれに由来します。
十三重塔の西に権殿と呼ばれる建物があります。天禄元年(九七〇)藤原伊尹によって建てられたもので、当初は常行堂(常行三昧のための道場)でした。室町時代に再建され、さらに平成に大規模な修理が行われましたので、朱色が鮮やかです。この権殿の西側に登山道があります。そこを上っていくと多武峰(談山)や御破裂山に至ります。先月友人とお参りしたとき、談合をしたという場所や、さらにその奥の御破裂山まで登りましたので、そちらの様子を。
早々に薄暗い山道になりますが、一人ではないので何とか行けるだろうと一歩ずつ登っていくと、程なく平らなところに出ます。ここが、千三百年以上前に、古代の歴史が転換する契機となった場所。中大兄皇子と中臣鎌足はここで談合したとされています。
赤樫の大木が聳え囲む静かな山中。この静寂は昔も今も変わらないかもしれず、歴史の扉をそっと開けると、千三百年以上前の声が漏れ聞こえてくるような気がします。
さらに山道を歩き御破裂山へ。国や藤原氏に災いが起こる際に予兆としてこの山が鳴動し、鎌足の神像が破裂すると言い伝えられてきました。鳴動するたび朝廷に報告されること数十回に及んだそうで、その記録が談山神社に残っています。本当に山が鳴動し神像が破裂したのだとしたら怖ろしいことですが、もちろんそうではなく、これは当時妙楽寺だった寺院からの朝廷に対する働きかけの一つでした。つまり寺社から凶兆が報告され、朝廷が卜占によってそれを確認し、その回避のための祈願を行い未然に防ぐことができると国家安泰となり、報告した寺社の株も上がります。とくに多武峰は藤原氏に縁があったので、次第にそれは藤原氏から朝廷への働きかけであったり要求にもなっていったようですが、室町時代以降戦乱が激化すると神頼みも効果なく神威が衰え、やがて神威をものともしない朝廷の力で全山が焼失(大和国一揆)、力が衰えることになりました。
御破裂山山頂には藤原鎌足の墓所があります。鎌足の墓所は、大阪の阿武山古墳が依然その可能性を残し、最終的にはまだ確定はしていません。御破裂山の方に埋葬されているのは遺骨の一部という説もあります。事実はどうあれ、この地を践んだ足跡は山に刻まれているはずです。千三百年以上の時を超え、その存在に思いを巡らせました。
ちなみに多武峰への登山口に古代の磐座信仰を見る場所があります。
大和川の源流の一つで、山から流れ落ちる水が小さな瀧となって岩を伝っています。古代、高龗神(水の神)は日本にもたらされた龍神信仰と習合し、祈雨、止雨の神として広く信仰されていきました。室生寺に近い室生龍穴神社などがそうですが、ここも同様です。水をもたらす山に向かって祈りを捧げた古代信仰が、この土地の原点でした。冒頭で、多武峰に降臨した神が山の峰を伝い香具山に至ったと書きましたが、降臨した神が高龗神あるいは龍神だったということです。そうした古代信仰の土地に鎌足の時代の歴史が重なり、さらにその後も次々と歴史が堆積していったのがここ多武峰で、いまこの場にいる自分はその厚い堆積の一番上の、まだ柔らかく薄い層にいるのだなと思っています。