桓武天皇は仏教勢力の政治介入を嫌い、東寺と西寺を例外に寺院を洛中に造ることを禁じましたが、貴族による持仏堂や、革堂のような町衆の集会所的役割を担う町堂は例外的に認められていました。
因幡堂は平安中期の貴族橘行平が因幡国の海で見つけた薬師如来像をお祀りするため、私邸にお堂を建てお祀りしたことに始まると伝わりますので、例外的に認められた一例になります。因幡堂があるのは四条と五条のほぼ真ん中あたりの、烏丸通りから東に数十メートル入った場所です。現在烏丸通りからですと、下のように正面に寺宝を展示する因幡薬師伝承館が見えます。正面はここから百メートルほど南の松原通を東に二十メートルほど進み、南北に走る不明門通を北に入ったところになります。
上が不明門通です。突き当たりに見えるのが本堂で、そのすぐ裏手に伝承館があるという位置関係です。ちなみに不明門通は、橘行平の時代より六百年弱後、秀吉による洛中改造によって造られたものです。不明門という名は因幡薬師の南門が常に閉ざされていたことに由来するようです。なぜ閉ざされていたかということについては、因幡堂の南に東五条院(文徳天皇の母藤原順子の御所)があったためとする説があります。
因幡堂の創建由来については、「因幡堂縁起絵巻」(東京国立博物館蔵)や「因幡堂縁起」(東寺観智院所蔵 俗に観智院本と呼ばれる)が参考にされます。観智院本の方が後に出来たようで、両者の内容には違いがありますが、おおよそ次のような内容です。
因幡国に赴任していた橘行平は帰京を前に重い病に罹り、祈りを捧げたところ、夢に僧が現れ「因幡国の賀留津に浮き木がある。その木は衆生済度のため仏生国から来たものだ。すぐにそれを引き上げ供養しなさい。そうすれば病は癒えるだろう」と告げました。早速賀留津に行くと、光る木が海に浮いています。引き上げてみると、薬師如来像の姿をしていたことから、行平は仮のお堂を建ててお祀りします。その後行平の病は癒え、無事帰京の途につくことができました。京に戻ってしばらく経った長保五年(一〇〇三)四月の夜、屋敷の門を叩く音がするので開けたところ、因幡国にお祀りしてきた薬師如来像が立っていました。行平は高辻烏丸の屋敷にお堂を造り薬師如来をお祀りし因幡堂と名付けました。寛弘二年(一〇〇五)、薬師如来の霊験により行平は因幡国守に任ぜられます。
と、このような内容です。観智院本では因幡国の海から引き上げられた薬師如来像は、天竺の祇園精舎にあった四十九院の一つ東北療病院の御本尊だったもので釈尊自刻の像であると記されています。東博本は詞八段、絵八段からなる一巻の絵巻(ただし欠損しているので、元は上中下の三巻か上下二巻の可能性も)、観智院本は上下二巻で、上巻は詞十段、絵十段、下巻は詞十三段で絵十二段から成り、立派なものです。こうした縁起が作られた背景に、中央集権的勢力の弱まりで寺社が国家から十分な援助を受けられなくなり、寺社自らその霊験を主張し支援者や信者を集める必要があったことがあげられるそうです。(「因幡堂縁起と因幡信仰」中野玄三)実際、その効果は大きかったようで、薬師如来が飛来したという長保五年から百年も経たないうちに霊験あらたかな場所として因幡堂は広く知られるようになっています。また絵巻との関係はわかりませんが、お堂創建当時天皇だった一条天皇も薬師如来に篤い信仰を寄せ、皇室の勅願所として勅使が毎月お参りするようになったそうです。平等寺という寺名は、因幡堂創建から百六十八年後の承安元年(一一七一)高倉天皇によって賜ったものです。
創建以来因幡堂は何度も火災で焼失し、そのたびに御本尊は運び出され難を免れてきました。仏像が納められている御厨子の背面に車輪が付いていますが、これは火災の際すぐに運び出せるようにと工夫されたものです。また仏像の頭には頭巾が乗っているのですが、これも運搬の際傷つかないようにと緩衝材替わりに被せられたものだそうで、頭巾のお薬師さんと呼ばれることもあります。
当然焼失のたびに境内の様子は変わります。現在は寺域も狭く、明治になってから再建された諸堂が肩を寄せ合うように建ち並んでいますが、平安以来病気平癒を願う人々が参拝し、その霊験が信仰を広め、噂を聞いた人がまた新たにお参りに訪れるという信仰の循環の流れが現在も続いていて、お参りの姿が絶えません。現在はとりわけがん封じにご利益があるとされています。がんが不治の病とされていた時代に、最後に望みを託して因幡堂を訪れる人が多かったことから、いつしかその霊験が広まっていったとのこと。寺域が狭いことでかえってお参りする人たちの祈りの熱がこちらにも伝わってくるようです。ここ数年来大切な人たちががんに罹患しました。医学の進歩で順調に回復されていますが、原始的な祈りもまた回復の力になるはずです。ちょうど冬の特別公開で御本尊なども拝観できるというので、お参りさせていただきました。
堂内撮影禁止ということもあり、あまり写真がありませんが、ざっと境内の様子を。
お参りはまず本堂の右手にある収蔵庫から。そこに御本尊の薬師如来像を中心に、釈迦如来像、如意輪観音像がお祀りされています。いずれも国の重要文化財に指定されています。釈迦如来像は清涼寺の釈迦如来像を模刻した清凉寺式と呼ばれるもので、鎌倉時代前期の作。如意輪観音も鎌倉時代の作とのこと。
御本尊の薬師如来像についてはお寺のHPをご覧ください。一木造りの流れるような立ち姿は五尺ほど、ちょうど人の背丈ほどの大きさです。表情も体の線も柔らかく、包み込んでくれるような温もりが感じられます。「大丈夫、治りますよ」という声が聞こえてくるようです。
中野玄三氏の「因幡堂縁起と因幡信仰」によると、因幡堂のこの薬師如来像は真如堂の御本尊阿弥陀如来像と作風が似ていることから、近い時代に同一工房で造られたのではないかとのこと。真如堂の阿弥陀如来像といえば、昨年十一月のお十夜法要で間近に拝観したばかりです。真如堂の阿弥陀如来は小さな仏像(像高一メートルほど)として印象に残っていますし、阿弥陀像と薬師如来像としての違いもあります。似ていると言われてもすぐにぴんと来ませんでしたが、写真で確認すると確かに肩のならだかな線や衣文の線が酷似しており、どちらかがどちらかを写したと言っても過言ではないほどです。
真如堂にも「真如堂縁起」が伝わります。それによるとこの阿弥陀如来像は入唐した円仁が帰朝の途で五台山の引声念仏を失念し焼香礼拝したところ、香煙の中に阿弥陀如来が現れたのでそれを袈裟に包んで持ち帰り、三尺三寸の阿弥陀仏を自ら刻み比叡山の三昧堂に安置したものとのことで、永観二年(九八四)比叡山の僧戒算が夢告によりその阿弥陀如来像を神楽岡東に安置したのが真如堂の始まりとされています。因幡堂に薬師如来が飛来したという一〇〇三年と時代的にそう開きはありませんので、二つの仏像に関連があっても不思議ではないでしょう。
下が本堂です。明治になってからの再建ですが、もっと古くからの建物に見えます。
本堂の向かって左、境内南西隅にあるのが上の観音堂で、ここには二体の十一面観音坐像がお祀りされています。(特別公開の看板に写真が出ています)元は北野天満宮に懸仏としてお祀りされていたもので、東寺の観智院を経てここに遷されました。普段は御厨子に納められていますが、特別公開期間中は御厨子から出され間近に拝観することができました。堂内にはこのほか弘法大師、不動明王、神変大菩薩像などもお祀りされています。
境内にはこのほか歓喜天や地蔵菩薩をお祀りするお堂が並んでいます。
この後、烏丸通りから最初に見えていた伝承館へ。様々な寺宝が展示されており、因幡堂縁起(いずれの本なのかは不明)を江戸時代に写したものもありましたが、特に目を惹いたのが小督局愛用の品です。小督局は類い希な美貌の持ち主で琴の名手としても聞こえた平安末期の女性です。高倉天皇の後宮に入ると天皇の寵愛を一身に受けますが、中宮建礼門院徳子の父にあたる平清盛の怒りに触れ宮中から追い出され、清閑寺で出家させられました。小督局の遺品がここにあるのは、かつて因幡堂の住職が清閑寺住職を兼ねたことがあり、その際遺品が因幡堂に移されたということのようです。伝承館に展示されていた遺品の中で強烈な印象を残したのが小督局の髪を織り込んで作られた毛髪織込光明真言でした。ガラス越しとはいえ、目を近づけると細い黒髪がよく見えます。自分の髪を一本一本織り込むその行為の裏に、別離(高倉天皇との別ればかりか、出産したばかりの第二皇女との別れもありました)の悲しみを忘れようとする非常に強い気持ちが感じられ、見ていると体が打ち震えるようでした。
薬師如来と毛髪織込光明真言。両者に直接的な繋がりはありませんが、祈りの力の強さという点では共通しているように思います。洛中で暮らした平安時代の人たちの心の内を少しだけですがのぞかせていただきました。
時代を経てなお効力を失わない因幡堂の霊験にあやかり、病気平癒を願ってお守りをいただいて帰りました。