秋篠寺の南一キロ半ほどのところに西大寺があります。平城京の西に東大寺より少し遅れた天平神護元年(七六五)に創建された大寺で、奈良時代には壮大な伽藍を擁し、東大寺や興福寺などと共に南都七大寺の一つとされましたが、現在は奈良の観光コースからはずれていることもあり、訪れる人はそう多くはありません。最盛期に比べ寺域も狭く、現存する伽藍も限られていますが、むしろそうした場所の方が静かに歴史に思いを巡らせそうです。
秋篠寺の参拝を終えた後、住宅街の小径を南下し西大寺に向かいました。
第四十五代聖武天皇と光明皇后(藤原不比等の娘)の間には皇位を継ぐ男子がなく(基王がいましたが早世)、県犬養広刀自との間に生まれた安積親王も十七歳で亡くなったため、聖武天皇の譲位により即位したのは阿部内親王でした。第四十六代孝謙天皇で、女性天皇として史上六人目です。孝謙天皇治世の前半は皇太后(光明皇后)の後見によって支えられましたが、次第に皇太后の甥にあたる藤原仲麻呂が勢力を強めていきます。それに危機感を抱いた橘奈良麻呂らがクーデター(橘奈良麻呂の乱)を起こすも粛正され、一層仲麻呂の権勢が拡大しました。仲麻呂は孝謙天皇と光明皇太后を後ろ盾に最高権力の地位を手にします。
孝謙天皇は即位九年で淳仁天皇(舎人親王の皇子)に譲位し孝謙上皇となります。淳仁天皇即位にも仲麻呂の力が働いており、即位後仲麻呂は藤原恵美朝臣押勝の名を与えられ、太政大臣に登りつめますが、光明皇太后が亡くなると権勢に翳りが見え始めます。加えて孝謙上皇の道鏡への寵愛を諫めたことで上皇の怒りを買ったこともあり、仲麻呂(恵美押勝)の焦りが強まり、ついに政権奪取のため軍事行動に出ます。有名な藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱で、近江国を舞台に激しい戦いとなります。最終的に仲麻呂は琵琶湖で果て仲麻呂勢力は一掃された上、淳仁天皇も廃位となり、孝謙上皇が重祚、称徳天皇として改めて即位します。その後称徳天皇は道鏡と共に六年の間政権を握ることになります。天平宝字八年(七六四)のことです。
西大寺の創建には、こうした時代背景があります。仲麻呂の乱の平定を祈願した孝謙上皇が鎮護国家の守護神として四天王の造立を発願され、称徳天皇として即位した翌年の天平神護元年(七六五)金銅の四天王像を造りお祀りしたのが西大寺の始まりと伝わります。
西大寺によると、創建当初境内は東西十一町、南北七町、総計三十一町歩、約四十八ヘクタールに及び、そこに百を超える堂宇があったようですが、都が京都に移ると次第に廃れ、平安中頃には天災にも見舞われ多くの堂宇が失われました。
最盛期の伽藍配置は、中央に薬師金堂、その後ろに弥勒金堂が建ち中心伽藍を形成し、東に小塔院と食堂院、西に正倉院と政所院、中心伽藍の南には東西二基の五重塔、その東側に四王院、西側に十一面堂院が配されていました。
秋篠寺から南に歩き、近鉄の踏切を越えた先で西大寺金堂跡と書かれた表示を見つけました。西大寺南門の北二百五十メートルほど、西大寺水利組合公民館の辺りです。創建当時いかに広大な寺域を擁していたかがわかります。
現在の境内の西側から南に回り込むと南門があります。正式にはそこが正門ですが、現在は東門がそれに代わっています。
上が東門です。参道を進むとまず右手に堂々としたお堂が見えてきます。
四王堂(四王金堂)というように、元は四天王像をお祀りするお堂だったものです。西大寺の創建は、孝謙上皇が仲麻呂の乱を鎮めるべく、四天王の造立を発願されたことに始まると伝わりますので、このお堂が西大寺の起源になります。現在の建物は江戸時代の再建ですが、周辺に創建当初の規模を伝える版築基壇が残っているとのこと。
堂内には創建の由来となった四天王像に加え、十一面観音像や、行基像、道鏡の像などがお祀りされています。四天王像、十一面観音像は国の重要文化財に指定されています。四天王像は中世後期に造り替えられたものですが、足下の邪鬼は創建当時の姿を伝えており、躍動感に満ちています。御本尊の十一面観音は高さが六メートル近くあり、その大きさに圧倒されます。京都白河にあった法勝寺十一面堂院の御本尊として平安時代に造られたもので、鎌倉時代に亀山上皇が西大寺中興の祖である叡尊に本像を託す形で遷されたそうです。
お堂の天上に頭が付くほど大変大きな像ですが、優美な表情のためか、前に立って見上げていると包み込まれるようです。近江国にはすばらしい十一面観音像が多く伝わりますが、大和国も同様です。長谷寺や室生寺、聖林寺、法華寺など個性豊かななその御姿を拝してきましたが、西大寺にこのような十一面観音像があることを不覚にもこれまで知りませんでした。歴史的にここで重要なのは四天王像で、もちろんこれらも迫力に満ちたすばらしい像ですが、大きさと優美さを兼ね備えた十一面観音像にまみえたときの驚きもあって、私の中では黄金の十一面観音のお堂と心に刻まれてしまいました。
四王堂を出てさらに参道を西に進むと、突き当たり正面に愛染堂、その左手前に東塔跡が見えてきます。
こちらが東塔跡。柵内に立ち入ることができないのでこの位置からでは見えませんが、基壇の上に礎石が残っています。ここに五重塔が建っていましたが、落雷で焼失しました。基壇は創建当初のものです。
南に回り込むと、一直線上に本堂があることがわかります。
こちらが現在の西大寺の中心堂宇である本堂です。もともとここには鎌倉時代に建てられた光明真言堂があり、江戸時代の寛政年間に建て替えられました。一重の寄せ棟造りで桁行七間、梁間五間。土壁を一切用いない独特の技法によって造られており、国の重要文化財に指定されています。ここにお祀りされているのは御本尊の釈迦如来像や弥勒菩薩像、文殊菩薩像(いずれも国の重要文化財)などで、釈迦如来像は叡尊が願主となり造られたものと伝わります。この像は、京都清涼寺の釈迦如来像を模刻すべく仏師を清涼寺に派遣し造らせた、いわゆる清凉寺式の釈迦如来像で、釈迦の生前の姿を写していると言われます。建長元年(一二四九)に開眼しています。この釈迦如来像もまた柔和な表情で、衣の流れるような線が優美です。
先ほど参道の突き当たりに見えていた愛染堂は、本堂の南西に建っています。本堂のお参りを済ませ、愛染堂へ。愛染堂は近衛家からの寄進により京都御所から叡尊の住房跡地に御殿を移築したもので、建物前には興正菩薩(叡尊)お手植えと伝わる樹齢七百年の菩提樹が枝を広げています。移築の理由について詳しいことはわかりません。
御殿だった神殿造りの建物の内部は客殿、内陣、御霊屋に分かれ、中央須弥壇の厨子に秘仏の御本尊愛染明王像がお祀りされています。普段は非公開ですが、この日はたまたま年二回の特別公開日にあたっており、拝観が叶いました。愛染明王像は叡尊の持念仏だったもの。煩悩欲望を浄化して悟りに導いてくださる明王で、様々な願いを叶え、良縁を結んでくださるとも言われます。全身深紅に染まった色彩がよく残り、力強い表情と相まって大変迫力があります。高さが三十センチほどの小さな像とは思えません。
御霊屋には興正菩薩寿像(国宝)、すなわち叡尊の像がお祀りされています。叡尊八十歳を記念し弟子の発願で造られたもので、肖像彫刻の傑作と言われるように、表情の微妙な綾が見事に表現されています。仏ではなく人でありながら、自身を同じ人と言うのが憚られる超越した精神を持つその姿は、威厳はあるものの意外なほど肩の力が抜け、すべてを受け入れる抱擁力を感じさせます。先ほども少し触れましたが、叡尊は貧しい人、病気に苦しむ人たちに手をさしのべたり、土木工事によって人々の生活に安心をもたらすなど、社会福祉の面でも尽力しました。その内容は奈良時代初めに活躍した行基のものと重なります。叡尊は、行基が生家を改めて造った家原寺に戒壇を造り、自らが戒師となり受戒を行ったり、行基が造ったとされる寺の再興にも力いることから、行基への尊敬、思慕がうかがえます。堂内の撮影ができませんので、ここで触れた諸像については西大寺HPをご覧ください。
西大寺中興の祖叡尊は建仁元年(一二〇一)大和国添上郡(現大和郡山)に生まれ、醍醐寺で出家、高野山で真言密教を学び、三十七歳から八十九歳で没するまで荒廃した西大寺の再興に尽力しています。「興法利生」つまり仏法を盛んにし、生きとし生けるものを救済することを自らの根本理念としての宗教活動は多岐に亘り、当時腐敗してた日本仏教を再起させるべく戒律の復興に努めたほか、病気や貧しい人たちの救済にも力を注ぎました。
叡尊によって中興された西大寺は、これまでの奈良仏教の伝統を受け継ぎつつ、真言密教と戒律の融合を説くもので、真言律宗として新たな宗派を形成、西大寺はその総本山となっていきます。浄瑠璃寺、岩船寺、海龍王寺、不退寺、白毫寺、般若寺、元興寺といった名刹は西大寺の末寺ですし、現在も全国に百に迫る末寺を擁しています。東大寺に比べ目立たない存在の西大寺ですが、叡尊の理念はいまも広く根付いているようです。
現在の伽藍配置は江戸時代以降のものとはいえ、諸堂をお参りしながら最も印象づけられたのは叡尊の存在でした。行基から叡尊へ、叡尊から忍性へ。その精神の継承を辿ってみたくなりました。
東門を出ると向かいに石落神社があります。この神社も叡尊により西大寺の鎮守として少彦名命をお祀りしたことに始まると伝わります。叡尊は西大寺で豊心丹という万病に効く薬を製造販売していましたが、その薬はここの神様が伝授した秘薬として広まったとのことです。