あけましておめでとうございます。
昨年は当ブログにアクセスしていただき、どうもありがとうございました。今年も皆様と関心を共有できることを願っております。引き続きご覧いただけますと幸いです。
年末は何かと慌ただしく、気がつくと年が改まっていました。先週投稿しようと思っていながら出来なかったところから今年は始めたいと思います。
昨年末、所用のため京都の寺町に行きました。いつもですとこの辺りも外国からの観光客の姿を多く見かけますが、さすがに年も押し詰まってくると人出が減り、以前の京都に戻ったような落ち着きが感じられました。京都市役所から北の寺町通には、画廊や骨董店、古書店に加え、老舗のお茶屋や洋菓子屋、パリの雰囲気のビストロやパン屋などがあり、足を止め店内をのぞき込むこともしばしばです。
そんな寺町通を御所のある北方向に歩いていると、右手に西国三十三所の十九番札所である行願寺があります。あるときから三十三所すべてにお参りすることを密かな目標にしており、残すところ六所になっています。行願寺は何度もその前を通っていますし、お参りしたこともあるのですが、カメラを持っていなかったこともあり、投稿の機会を逸していました。行願寺の投稿をきっかけに、今年はもう一つ二つお参りできたらと。
行願寺は革堂という通称で知られます。寛弘元年(一〇〇四)、行円上人が御所の西、一条小川にあった一条北辺堂の跡地にお堂を復興したことに始まると伝わります。行円上人は若かりし頃狩人をしており、あるとき子を宿した雌鹿を射止め、傷口から子鹿が生まれたのをきっかけに発心し仏門に入ったと伝わります。密教の行者だった行円は宝冠をかぶり常に雌鹿の革を身につけていたことから、いつしか革聖と呼ばれるようになったといいます。革聖のお堂なので革堂ということです。一条小川の周辺には、現在も革堂町や革堂西町といった地名が残っています。
当初は多宝塔もあったようですが、落雷で焼失。その後再建されるも今度は火災で多宝塔ばかりか他のお堂も焼失してしまいます。秀吉の時代には御所東側の寺町荒神口に移されますが、江戸時代に宝永の大火に遭い、現在地に移転し現在に至っています。従ってこちらの本堂は文化十二年(一八一五)の再建です。
御本尊は千手観音像。行円上人が加茂明神から槻木(ケヤキ)を譲り受け刻んだ像と伝わります。通常は非公開ですが、毎年一月十七、十八日に初観音のご開帳があります。生憎そのときはお参りに行けそうにありませんが、去年は十月にもご開帳されていますので、今年もそれを期待して待つことにします。ここの千手観音像は手の表現に特徴があるようです。ちなみにその余材で善峯寺の御本尊も刻まれたとか。
再建とはいえ、奉納された多くの扁額から巡礼者の思いが感じられます。本堂内部の天井は、再建の際奉納された花鳥の木彫板で飾られているとのこと。至るところに人々の思いが浸透しています。
境内は決して広くはありませんが、本堂のほかにもお堂がいくつかあります。こちらは鎮宅霊符神堂。
鎮宅霊符とは太上神仙鎮宅七十二霊符とか太上秘法鎮宅霊符とも呼ばれる七十二種の護符で、中世初期に中国から伝来し、霊験無比の護符として陰陽道や仏教、神道などに受容され広まりました。この護符を司る神が鎮宅霊符神で、このお堂はその神様をお祀りしています。ちなみに鎮宅霊符神は日本では妙見菩薩や天之御中主神などと習合し、星辰信仰にも関係があります。陰陽道では最高神とされ、家内安全、天下泰平に御利益があることから、秀吉が革堂をここに移転させた際にお祀りしたと伝わります。
門外には西国十九番札所の石標と共に、鎮宅霊符尊神の石標も立っています。通りからでもわかるようにということですから、鎮宅霊符神への信仰の篤さがうかがえます。
境内にはこちらの寿老人神堂もあります。
寿老人は長寿を授けてくださる七福神の一柱です。七福神信仰は京都が発祥とされ、古くから巡礼が行われてきました。革堂の寿老人神堂は、先ほどの鎮宅霊符神堂と共に秀吉によって祀られたもので、以来霊験あらかたな神さまとして信仰されてきました。
境内奥にある大きな石塔は加茂明神塔。宝塔形の五輪塔です。御本尊が加茂明神から譲り受けたご神木で彫られたことから、行円上人が報恩のため加茂明神を勧進し、お祀りしたものです。
正面の穴には不動明王の石仏がお祀りされています。
その右隣には多くの石仏が安置されています。梵鐘再鋳落慶記念 百体地蔵尊とあります。個々の由来はわかりませんが、ここは地蔵信仰の地でもあったようです。
西国三十三所の札所というだけでなく、京都に伝わる別の信仰が感じられる境内でした。