古社寺風景

満願寺

今年も残すところ十日ほどになりました。新しい年の足音が聞こえてきたので、少し早いですが新年のお願いを兼ねて兵庫県の満願寺を訪ねました。その名の通り、すべての願いを叶えてくださると信仰を集めている古刹です。

満願寺が鎮座するのは大阪府と兵庫県の境を流れる猪名川から西に三キロほどの、長尾連山南の丘陵地です。最寄り駅は阪急宝塚線の雲雀丘花屋敷。駅北側には雲雀丘、雲雀丘山手、花屋敷荘園、花屋敷つつじガ丘といった宝塚市の住宅地が拡がっています。お寺は急坂を上った高台の一画にありますが、周辺の住居表示は川西市満願寺町です。満願寺周辺だけ川西市の飛び地になっているのです。満願寺は江戸時代から切畑村に囲まれていたところ、多田神社(当時は多田院)との繋がりが強かったことから明治二十一年(一八八八)に実施された町村制で多田村になり、その後昭和になって多田村が廃され川西市になったので、現在も川西市の飛び地になっているということのようです。

ちなみに満願寺を取り囲むようにしてあったという切畑村は、明治時代の開発をめぐり一悶着起こしています。明治三十二年(一八九九)大阪と福知山を結ぶ阪鶴鉄道(後のJR福知山線)の開通に際し、入会権が複雑に絡んだ共有山林の売買代金をめぐり、切畑村が原告となって周辺の村々に対し訴訟を起こしたのです(長尾山訴訟)。自分のところの取り分が一番多いという主張でしたが、問題となっている山林は明治二十二年(一八八九)に成立した新町村の所有ではなかったことがわかり、最終的に原告の主張は棄却されますが、近隣村々との関係はその後どうなったのか…。現在の阪急宝塚線である箕面有馬電気軌道が敷設されたのは、それから十一年後の明治四十三年(一九一〇)、小林一三は同年に池田室町の分譲を開始しています。雲雀丘の開発はもう少し後のようですが、自然豊かな丘陵地がそうしたごたごたもありつつ変貌していく中、満願寺は奈良時代から変わることなく信仰の灯を灯し続けています。

山門下の石標に後醍醐天皇勅願所、多田源氏祈願所と刻まれているように、平安時代に多田院(現多田神社)を創建した源満仲が帰依して以後、源氏一門の祈願所として栄えた歴史を持つ満願寺ですが、創建は奈良時代、勝道上人によって千手観音を御本尊として開かれたと伝わります。その千手観音について、江戸時代の地誌『摂津名所図会』に次のように書かれています。神亀元年(七二四)三月下旬、比叡山の麓衣川の川上に光があると伝え聞いた地人六人が光源を辿っていくと、洞窟があり周囲に芳香がたちこめています。洞窟を探索すると、一体の仏像が鎮座されていました。その仏像を巌の上に置き拝したところ、千手大悲の尊像だったことから、摂津国の坂根村(栄根)に運び安置したとのこと。栄根は現在満願寺がある場所から南東に二キロほどのところです。

ここからは満願寺の寺伝に依りますが、その後あるとき千手観音の姿が見えなくなり、探したところ、北西の山中の岩上に立っておられたそうで、聖武天皇の発願で諸国に満願寺を建立していた勝道上人がその千手観音に目を留め、伽藍を造り千手観音をお祀りしたということです。勝道上人は天平七年(七三五)生まれですから、お寺の創建は神亀年間ではなくもっと後になるはずですが、奈良時代後半から平安時代初めとしても千二百年以上の歴史を有していることになります。

その後平安時代中期に、摂津守の源満仲が満願寺に帰依し、その後源氏一門の祈願所として栄えます。満仲にゆかりのお寺ということから、九男源賢(幼名美女丸)にまつわる次のような話が伝わっています。俗に言う美女丸伝説で、涙を誘うその話は後に謡曲にも取り入れられていますのでご存じの方もいらっしゃるでしょう。その内容はおおよそ次のようなものです。

満仲の末子美女丸は素行が悪く、見かねた満仲が修行をさせるべく寺(中山寺とも)に預けます。十五歳になった頃修行の様子を尋ねると、気の向くままに過ごしており経文を読むことすらできません。怒った満仲は家臣の藤原仲光に美女丸の首を刎ねるよう命じますが、仲光は主君の子供の首を刎ねることができずに悩み苦しみます。そのとき仲光の子供が身代わりになることを申し出たため、断腸の思いで自分の息子の首を刎ね満仲に差し出し、美女丸を逃しました。後にそれを知った美女丸は自らの行いを悔い改め比叡山に入って出家し、荒行に励んで源賢阿闇梨となります。あるとき師の源信と共に満願寺にやってきた源賢阿闇梨は、年老いた満仲と母に再会し、自分が美女丸であることを明かします。ところがそのとき母は既に目が見えなくなっていました。源賢阿闇梨は当山に留まり阿弥陀如来に祈りを捧げたところ、七日満願の日に奇跡が起こり母の目が見えるようになりました。

信心を深くした母は、源賢阿闇梨のために円覚院を建立したとのことで、それが現在の本坊と伝わります。また阿弥陀如来は眼病治癒を願う人々から信仰を集めるようになったとのこと。

鎌倉時代になると後醍醐天皇の勅願寺となり、室町時代には足利将軍の祈願寺として最盛期には四十九の院坊がありましたが、戦国時代の兵火をあび次第に衰退、現在残っている子院は本坊として使われている円覚院のみとなりました。最盛期の規模からするとかなり小さくなっていますが、境内には先に触れた歴史を伝えるものがいくつか残っています。

早速境内へ。

まず目を惹くのはこちらの山門です。あまり見ない形ですが、明治十四年(一八七一)の再建で比較的新しいものです。お祀りされている木像の金剛力士像二体は、明治の神仏分離で多田院(現多田神社)から遷されたものです。山門はこれに合わせて造られたのでしょうか。金剛力士像は阿形、吽形の一対で、阿形に嘉暦年間の墨書があることから鎌倉時代後期の作とわかります。

 

山門をくぐると、参道が境内奥へと誘ってくれます。

 

緩やかな坂を下り、また上った突き当たりの正面に見えるのは金堂です。満願寺の山号は神秀山。素戔嗚尊が高天原から追放される際、ここに降臨したと伝わることに由来する名だそうです。それはともかく、お寺が山に包まれるようにしてあるということがおわかりいただけるかと思います。

坂を下った右手にあるのが本坊、かつての円覚院です。書院と庭園は江戸時代寛政十年(一七九八)頃のものとのこと。(書院は講演会利用など一般に貸してくださるようなので、中の様子はそうした機会があったら、またそのときに)

石段を上ると、右手に観音堂があります。観音堂はもともと奥の院(背後の山 現在霊園になっている辺り)にありましたが、明治十七年(一八八四)現在地に遷されました。建物は棟札から寛文八年(一六六八)の再建です。ここにお祀りされているのが創建由来にもある千手観音像です。秘仏で毎年春のお彼岸の時期にのみご開帳になります。お寺のHPに写真が出ていますので、関心のある方はご覧ください。頭上に十一面を抱いた千手千眼観音像で、平安時代中頃の作のようです。写真は全体が写っていないので確かなことはわかりませんが、上半身に力点が置かれているようで、頭部や腕に比して脚がすっとすぼまっているように見えます。全体としては優美で、脇侍も小さいながら力強く美しい像です。

 

さらに石段を上がった正面にあるのが、先ほど参道からも見えていた金堂です。元は円覚院にあったようで、昭和に解体修理をしています。金堂内には室町時代作の宮殿(御本尊の厨子)が置かれ、そこに御本尊の阿弥陀如来像がお祀りされていますが、秘仏のため扉は閉ざされ、手前にお前立ちの像がお祀りされています。

金堂内は撮影禁止のため、諸仏についてはこちらをご覧ください。御本尊の阿弥陀如来像は勝道上人の作と伝わるそうです。時代など詳細は不明ですが、安定感のあるお姿です。先ほども触れた美女丸伝説で母の眼が見えるようにと祈願したのはこの阿弥陀様とのことで、開眼阿弥陀如来と呼ばれ信仰を集めたとのことです。

また金堂内には十一面観音像や薬師如来像、聖観音などもお祀りされています。いずれも平安時代の作。これらは素朴で優しい雰囲気です。

 

 

金堂と廊下で繋がっているのがこちらの毘沙門堂です。ここにお祀りされている毘沙門天像は源満仲の手によるもので、満仲によってお祀りされたと伝わるそうです。堂内には勝道上人像、地蔵菩薩像、帝釈天像もお祀りされています。

諸仏へのお参りを済ませ、金堂の向かって左に進むと、ひときわ眼を惹く石塔が立っています。

正応六年(一二九三)三月の刻銘がある九重塔は、高さ三、五三メートル。明治時代にこの場所に移されたとのこと。国の重要文化財。源氏一族の女法尼妙阿が両親の極楽浄土を願い造立したと伝わります。

石塔のさらに左には源家七人の塔があります。

右から、伊豆守の源国房、出羽守の源光国、下野守の源明国、下総守の源仲政、山縣三郎源国直、摂津守の源行国、兵衛太夫蔵人源国基の各塔。国房は満仲の四代孫、光国・明国・仲政・国直は五代孫、行国と国基は六代孫という関係です。

またこちらの三廟には、中央に美女丸、右に藤原仲光、左に幸寿丸(仲光の息子)がお祀りされています。室町時代に造られた廟とのこと。この前に立つと、美女丸伝説が史実に感じられます。

お墓ということでは、毘沙門堂から右の斜面を上がっていったところに坂田金時の墓と伝わるものもあります。

坂田金時、すなわち金太郎にまつわる伝承は各地に残されています。彫り物師の娘が京に上がった際、宮中に仕えていた坂田蔵人と結ばれ天暦十年(九五六)五月に誕生した金太郎は、足柄峠にやってきた源頼光(満仲の息子)と出会い、力量を認められ家来になります。京に上り、頼光四天王の一人として大江山の酒呑童子を退治するなど大活躍。それらが文学や芸能等にも取り入れられ、金太郎は世に広まりましたがその分各地に伝説を残しています。出生地はもちろん墓所もいくつか伝承地があります。満願寺はこれまで見てきたように源氏に縁のお寺なので、ここに坂田金時の墓とされるものがあるのも、その関係でしょうか。

 

先ほど創建由来のところで、比叡の山中で発見された千手観音像を最初にお祀りしたのは、満願寺から南東に二キロほどの栄根だったと書きましたが、栄根には奈良時代聖武天皇が行基に造らせたと伝わる栄根寺というお寺があり、満仲も信仰を寄せていたようです。境内にあった薬師堂には平安時代のものと考えられる薬師如来像がお祀りされていましたが、阪神淡路大震災で全壊し、現在そこは史跡公園になっています。栄根寺の近く(JR川西池田駅周辺)には弥生時代から平安時代にかけての栄根遺跡があります。遺跡ということでは、以前投稿した川西の加茂遺跡も栄根遺跡の南の指呼の間にあります。猪名川周辺には栄根寺以外にも伊丹廃寺や猪名寺廃寺などいくつかの古代寺院があり、こうした寺院の創建にはその土地ゝの有力氏族が関わっていたと考えられます。満願寺は丘陵地にあり、猪名川流域の古代寺院とは性格が異なるかもしれませんが、少なくとも栄根寺とは創建時期も距離も近いので何らかの交流があったのではないかと想像したくなります。

境内の一画に茶房やピザ窯を作ったり、本坊を貸し出したりと、ご住職は人を呼び込む手腕に長けていらっしゃるようです。観光地ではない場所にあるお寺は、足を運び知ってもらうということが大切です。そのためだけではありませんが、同じ頃に創建された寺院が廃寺となるなか、満願寺だけはいまも法灯を継いでいます。

満願寺でお願いしたのは、他でもありません、家族友人皆の健康です。私も来月一大イベントを控えているので、何があっても風邪はひけません。無事終えることができるよう、お願いしてきました。

 

 

 

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