大阪の中之島の南五百メートルほどのところに道修町という変わった名前の町があります。東西に細長い道修町は淀屋橋や北浜から近く、周辺は大きなビルが建ち並ぶオフィス街ですが、道修町通を歩いていると普通のオフィス街とは少し違うことに気づきます。
ヨーロッパの建物を思わせる白いビルは塩野義製薬の本社ビル(↑)。その向かいには田辺三菱製薬の本社ビル(↓)。
もう少し東に行くと住友ファーマー。その向かいには日本新薬。
堺筋の手前には小野薬品。写真はありませんが、御堂筋の西には武田薬品も。
このように道修町は製薬会社が集まる薬の町で、現在も百五十軒ほどがあり、その歴史は江戸時代に遡ります。
道修町は大阪城の西の船場と呼ばれる地域にあり、豊臣秀吉の時代には貿易商の町でした。寛永年間に堺の商人小西吉右衛門が薬屋を開いたことが契機となり、中国から輸入した薬を扱う商人が道修町に集まってきたことに加え、徳川吉宗の時代には道修町の薬の仲買人が幕府公認の株仲間を結成したことで、独占的に販売を行うことができるようになります。江戸時代の薬というと、中国から輸入された唐薬と、日本各地で作られた和薬ですが、それらは一端道修町に集められ、株仲間で品質を確認し、適正価格を設定し、全国に向けて販売したということです。明治になり株仲間は解散しますが、西洋の薬を取り入れたり、独自の検査機構を立ち上げたりと、道修町の信用を崩さないよう町全体で団結し薬事業を展開したことが、現在の薬の町に繋がっています。
通りの先に「神農さん」と書かれた看板が見えます。神農は中国の薬の神様です。薬に関わる人たちが医薬の祖としてこの町にお祀りしていたところに、安永九年(一七八〇)京都の五條天神社から少彦名命の御分霊が勧請され、少彦名神社が創建されました。少彦名命は『古事記』では神産巣日神(かみむすびのかみ)の子、『日本書紀』では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子で、国造りに関わったとされますが、医薬の神としての神格も持っています。
製薬会社関連の人たちばかりか、病気平癒を願う人たちからの信仰を集め、いつ訪れてもお参りの人が絶えない神社です。偶然今日(二〇二四年十月十二日)は一粒万倍日で、狭い境内には手を合わせる人の列ができていました。一粒万倍日だけの特別なおみくじを買ってみたら、ありがたいことに大吉でしたが、大当たりの紙が入っていたら、もっと福をいただけるようでした。私としては大吉で十分ですが。
堺筋を渡った先に、ひときわ大きな旧家があります。明治三年(一八七〇)小西儀助が始めた薬種商「小西屋」が、明治三十六年に建てた社屋兼屋敷で、現在は旧小西家住宅資料館として会社の歴史を伝えています。小西屋は、現在ボンドで有名なコニシです。建物のうち主屋や二階蔵などが国の重要文化財に指定されています。予約をすれば見学可能です。
少名彦名神社の隣にも「くすりの道修町資料館」があり、町全体の歴史を伝えていますし、田辺製薬、塩野義製薬、住友ファーマー、武田科学振興財団でも展示施設があり公開されています。(予約が必要な所もあります。)
薬の町としての歴史と誇りが至るところで感じられました。