七月にNHKの日曜美術館で、「若冲 よみがえる幻の傑作 12万の升目に込めた祈り」が放送されました。
正徳六年(一七一六)京都錦市場の青物問屋の長男として生まれた伊藤若冲は、父の死後家業を継ぐも、関心があるのは絵を描くことだけで、四十歳のとき弟に家督を譲り絵に専念しました。色鮮やかな花鳥画、とくに鶏を得意とし、勢い、躍動感、迫力、ときにユーモアが感じられる作品は平成に入って再評価され、若冲ブームが巻き起こったことは周知の通り、今も若冲人気は衰えを知りません。日曜美術館の番組は、昭和八年の図録に掲載されていながら現在行方不明になっている(大阪大空襲で焼失したとも)「釈迦十六羅漢図」の復元を、最新のデジタル技術によって試みる過程を記録したもので、大変興味深いものでした。「釈迦十六羅漢図」は若冲が考案した升目描きの技法が用いられていますが、図録はモノクロのため色彩が全くわかりません。そこで静岡県立美術館に所蔵されている「樹下鳥獣図屏風」を参考に、十二万もの升目に色を乗せていき、原寸大の色鮮やかな「釈迦十六羅漢図」を甦らせたのです。その作業は緻密かつ大変根気の要るもので、関わった方たちの努力には頭が下がります。
「釈迦十六羅漢図」が想定復元されたことによって、この作品と静岡県立美術館にある「樹下鳥獣図屏風」との関係も見えてきました。「釈迦十六羅漢図」を中心に、その左右に「樹下鳥獣図屏風」を配することで、若冲の宗教的世界観を表していたのではないかというのです。これらの作品が制作された、あるいは置かれていた場所としてあげられていたのが、京都深草にある石峰寺でした。石峰寺は、若冲の下絵を元に制作された五百羅漢の石像があることが知られています。ここは若冲終焉の地でもあり、境内には若冲のお墓もありますが、そうした場所で先の作品が制作された可能性があるということに興味を覚えました。
この番組が放送される一月ほど前の六月に、石峰寺を訪ねていました。若冲の墓前に手を合わせ、裏山に配された石仏の五百羅漢を見た記憶がまだ鮮明に残っている中で、先の番組を見たということで、もし番組を先に見ていたら石峰寺で目を向ける場所が変わっていたかもしれないと思う一方で、後から答え合わせができたという気もしています。番組の後すぐに石峰寺について投稿しようと思いながら身辺慌ただしく、気づけばもう九月。九月十日は若冲の命日で、石峰寺では若冲忌が執り行われます。時機到来、若冲を偲びながら、石峰寺を取り上げます。
石峰寺は深草丘陵の西麓、伏見稲荷大社のすぐ南にある黄檗宗の寺院です。創建は宝永年間(一七〇四~一一)、宇治萬福寺の第六世・千呆性侒《せんがいしょうあん》によって禅道場として開かれましたが、前身は摂津国多田郷に平安時代源満仲によって建立された沙羅連山石峰寺です。御本尊は満仲の持念仏で恵心僧都の作と伝わる薬師如来像でしたが、摂津国の石峰寺は兵火によって焼失、薬師如来像は山中に埋められ難を免れました。慶長元年(一五九六)にその像が発見されると、「都に近いところに寺を遷し薬師如来を安置すれば、人民に広く利益がもたらされるだろう」というお告げがあり、まずは京都五条の因幡堂に、それからしばらくして五条大橋付近にお祀りされ石峰寺と称したそうです。千呆はこの薬師如来に信仰を寄せており、宝永年間に深草の地に遷してお祀りした、それが現在の石峰寺ということです。
千呆性侒は一六三六年、中国福建省の生まれで、即非如一(隠元に招かれ来日した臨済宗黄檗派の僧)に随行し来日、長崎の崇福寺に住持した後、元禄八年(一六九五)五十九歳のときに萬福寺の第六代に選ばれています。萬福寺に入った千呆は、幕府からの寄進を受けながら諸堂を修繕整備します。石峰寺の創建は一七〇四年から一一年頃ですから、萬福寺の整備が一段落した後になるでしょうか。
石峰寺は東に連なる深草丘陵の裾を寺域としています。創建当時の境内は現在の十倍近くあり、本堂は入母屋造りで本瓦葺きの禅宗様でしたが、大正四年(一九一五)に火災で焼失、その後再建されるも、昭和五十四年(一九七九)に放火によってまたも焼失、その際御本尊の薬師如来像も焼失してしまいます。昭和六十年(一九八五)に本堂が再建され、御本尊が釈迦如来像に変わり今に至っています。
ちなみに下は『都名所図会』巻五に掲載されている石峰寺の境内図です。
緑に映える朱色の竜宮門。扁額には「高着眼」とあります。物事を高いところから広く見ることで本質を見抜くといった意味でしょうか。千呆の師即非如一の揮毫によるものです。
緑に囲まれた参道を進むと、奥に再建された本堂があります。
扉や高欄に用いられた卍の意匠が印象的です。
本堂脇の小高くなったところから、南側の屋根が見えます。鬼板には禅の文字。すっきりとした佇まいです。
石峰寺は宇治萬福寺を本山とする黄檗宗の寺院ですが、昨今の若冲人気もあって、現在は若冲にゆかりのお寺として認知されています。
若冲は七十二歳の頃に天明の大火で家を失い、大阪豊中市の西福寺や京都伏見の海宝寺に滞在、最終的に石峰寺門前に落ち着き、そこで生涯を終えています。絵一枚の値段を米一斗としたことに由来し、門前に構えた草庵を斗米庵と名付けました。
本堂の右側から山のほうに回り込むと、若冲のお墓があります。
墓石には「斗米菴若冲居士墓」と刻まれています。墓前に手を合わせ、さらに山の方に上がっていくと、朱色の門が見えてきます。
羅漢参道唐門という名の通り、若冲の下絵を元に作られた五百羅漢の石像はこの門をくぐった先の山中にあります。
若冲下絵による五百羅漢は釈迦の誕生から涅槃に至るまでの生涯を表したもので、夥しい数の石像が山中に配されています。完成したのは天明の大火の後ではないかとされています。あいにく撮影禁止のため実際の様子をご紹介することはできません。心ない人によって倒されたり、自身の写真世界を作るために石仏に帽子をかぶせたり石仏近くで蝋燭に火を灯したり、といったことがあったためで、こうすることがご住職の本意ではなかったと思えるだけに残念です。
竹や木の根元に五百羅漢のほか、釈迦、文殊、普賢、禽獣など、さまざまな像が釈迦の生涯のストーリーに則して配されているところを、落葉を踏みしめながら辿っていくのですが、深山に籠もってひたすら修行に励み、肉はそげ、衣服はぼろぼろ、超人的な能力を得た聖者たちが若冲の手にかかるとどこか可愛らしくユーモアを湛えた姿に見えてきます。石仏が作られてからすでに二百年以上が経ち、風化しかかったものもあり、それによって表情が和らいだということではなく、そもそも下絵の段階から見る者の心を和ませる姿だったのだと思います。じっと見ていると、その表情はすべてを超越した先に現れるもののような気がしてきます。肩の力が抜けゆったりと構えているように見えるけれど、そこに至るまでには語り尽くせない苦難もあった。そこを若冲はオブラートに包むように、石の奥に念じ込めようとしたのではないかと、そんなことを思いながら静かな裏山を廻りました。
余談ですが、石峰寺の五百羅漢像の一部が、東京の椿山荘庭園にあります。明治十一年(一八七八)に山県有朋が購入し邸宅としていた場所に、どのような経緯で運ばれたのかはわかりませんが、時代からいって廃仏毀釈の影響だったかもしれません。破却されてしまうよりはいいですが、石峰寺の裏山にあってこそ意味のある五百羅漢像ですから、正直違和感はぬぐえません。
九月十日、石峰寺で若冲忌の法要が営まれます。