古社寺風景

藤森神社

生家に二メートル近い背丈の紫陽花の古木がありました。隣家との境の日当たりの悪い場所に植えられていた割にはよく枝葉を延ばし、梅雨になると大きな葉が背後の殺風景なブロック塀を覆い隠してくれました。最近は紫陽花というと色とりどりで品種も豊富ですが、生家の紫陽花は昔からよく見かける一重の淡い水色でした。手入れが悪く枝先にちょろっと花をつける程度で色も珍しいものではなかったことから、花の季節になってもそちらに目が向かなかったのですが、ある年の冬、思い切って枝を半分ほどに切り詰め、根元に密集していた古い枝を整理して肥料を施したところ、その年の六月見事なほど大きな花を咲かせました。子供の頭ぐらいもある丸い花を見ていると、それまで平凡だと思っていた色が目を惹く色であることに気づかされます。とくに美しく感じるのは雨の日で、水滴を含んだ水色の紫陽花は青白く光る月のように薄暗い葉陰を照らしてくれました。最近アナベルという白い西洋紫陽花をよく見かけます。これはこれで綺麗ですが、白そのものよりもむしろ淡い水色のほうが、白の印象として記憶の映像から浮かび上がってくるようです。そういえば実家の庭では、紫陽花の足下にドクダミが群生し、ちょうど紫陽花の咲く頃小さな十字の白い花をつけました。無数の小さな白い花は、地面を覆うドクダミの暗緑色の葉の隙間からぽっと浮かび上がって見えます。水色の紫陽花とドクダミの白い花は、薄暗い雨の庭の片隅を照らす花灯りでした。六月、あちらこちらで紫陽花を目にするようになると、そんな昔の情景が思い出されます。

 

先日京都深草にある藤森ふじのもり神社を訪れたところ、色とりどりの紫陽花が咲いていましたので、まずは紫陽花の様子から。

藤森というのはかつてこの辺りに藤が群生していたことに由来すると言われますので、藤森神社は藤の名所かと思いきや、現在の藤森神社は紫陽花の名所になっており、参道脇と境内北奥の二箇所に紫陽花苑があり、ホンアジサイ、ガクアジサイ、西洋アジサイの三千五百株ほどが花を咲かせます。

第一紫陽花苑の方は整備されて間もなく陽ざしを遮るものがないこともあって風情に欠けますが、苑内の一画を藤の森にしようということで、四十メートルほどの長い藤棚が完成したところです。数年後、五月には藤、六月には紫陽花が楽しめるでしょう。その頃には真新しい感じも薄れているかと。

 

 

 

拝殿北側の第二紫陽花苑は社叢で直射日光が遮られ、紫陽花にとっては程よい陽当たり具合です。第一紫陽花苑に比べ花が少なかったとはいえ、建物の後ろで控えめに咲く美しさが感じられますし、たまに咲いている花を見つける喜びもあり、個人的にはこちらの方が好みでした。

紫陽花苑は今月末まで公開され、期間中の週末には様々な行事が行われるそうです。

 

紫陽花のことはこのくらいにして、藤森神社の話に移ります。

 

 

藤森神社が鎮座しているのは、旧山城国紀伊郡深草、現在の京都市伏見区深草で、二キロほど北には伏見稲荷大社があるという立地です。前回投稿した海住山寺で木津川について触れました。この川は泉大橋付近で北に向きを変え、橋本のあたりで桂川、宇治川と合流し、淀川となって大阪湾に注ぎますが、深草というのは三川合流地点から宇治川を上流方向に十キロほど遡り、さらにそこから北に数キロいった一帯です。深草の東には南北に丘陵が続いています。宇治川のすぐ北には伏見城が築かれた桃山丘陵があり、そこから北に向かって大岩神社のある大岩山、さらに北には伏見稲荷大社のある稲荷山という具合で(これらは深草丘陵)、太古こうした丘陵から流出した土砂が堆積した湿地帯だった土地には古くから営みがありました。深草西浦町から発見された弥生時代中頃の農耕集落跡である深草弥生遺跡がその証拠で、出土した土器や様々な種類の木製農具などから、この辺りが京都盆地の中でもいち早く稲作の行われた土地だったことがわかったそうです

藤森神社が鎮座しているのは、その集落跡から南東に六百メートルほどの場所ですが、藤森神社の御祭神から神社の歴史を繙くと、深草に根を下ろした古代豪族や伏見稲荷大社との浅からぬ縁も見えてきます。

中央に通路のある割拝殿(通路はふさがれていますが)と本殿は、江戸時代に宮中から下賜された建物で、本殿は宝暦五年(一七五五)に内侍所仮殿として建築されたものとのこと。

檜皮葺の屋根が美しい本殿は中央の中座に加え、向かって右の東座、左の西座の三座から成り、全十二柱の神々がお祀りされています。具体的には、中座には主祭神として素盞鳴命、以下別雷命、日本武尊、応神天皇、仁徳天皇、神功皇后、武内宿禰の七柱、東座には舎人親王、天武天皇の二柱、西座には早良親王、伊豫親王、井上内親王の三柱で、周辺にあった神社が時代の変遷過程で合祀されたことで現在のようになっています。

中座の筆頭は素戔嗚尊ですが、これについては最後に触れます。中座にお祀りされている神々の中で注目すべきは、神功皇后伝説に関係する神々です。神功皇后が新羅から凱旋した際、山城国深草の里藤森の地に纛旗とうき(軍で用いる大旗)を立て、兵具を納めて塚を作り、神をお祀りしたという創建由来に因んでおり、本殿の東にはその伝承を示す旗塚(写真下)もあります。

神功皇后伝説の背後にうかがえるのは、古代豪族紀氏の存在です。紀氏は軍事に長け和歌山県北部を流れる紀ノ川の河口付近を根拠に水運を掌握していました。紀ノ川河口は大和王権が外征する際にも国内統一に向け移動する際にも重要な拠点だったため、大和王権にとって紀氏の協力は欠かせなかったことから、紀氏は大王家との関係を軸に勢力を拡大したようです。紀氏には中央豪族の紀朝臣(紀貫之はこちらの系統)がいますが、紀ノ川河口を根拠地としていた紀氏は紀直きのあたいという地方豪族、別の系統です。それが大和王権と密接な関係を築くことができたのですから、いかに力が大きかったかということです。王権との結びつきは、たとえば『日本書紀』景行天皇の段に、天皇が紀伊国に神祀りのために行幸された際、紀直の遠祖の菟道彦うじひこの娘影媛を娶り生まれたのが武内宿禰であるとしているところにも見えます。『古事記』によると武内宿禰は紀氏のほか葛城、波多、蘇我、平群などが後裔とされています。ということは紀氏は葛城氏や蘇我氏などとも同族ということになります。古代の系譜には作為的なものもありますが、紀氏がそれだけ力を持っていたということはここからも読み取れるように思います。それはともかく、武内宿禰は景行天皇から仁徳天皇まで五代にわたって忠臣として仕えた伝説上の人物で、神功皇后にも力を貸したとされます。そういえば深草の地はかつて旧山城国紀伊郡深草でしたので、地名からも紀氏の存在がうかがえます。紀氏は京都や大阪を流れる淀川水系も押さえていたようです。

ところで深草というと秦氏も古くから根を下ろしていました。秦氏が深草で力を伸ばしたのは紀氏の勢力が衰えた後で、秦氏は葛野に入る前深草に根を下ろしたということのようです。時代は五世紀と言われています。深草における秦氏の存在を最もよく伝え残しているのは伏見稲荷大社です。祖霊信仰の対象だった稲荷山に、秦氏が稲荷大神をお祀りしたのが大社の創建由来ですが、当初稲荷大神は稲荷山にお祀りされていました。麓に遷されたのは室町時代の十五世紀、後花園天皇の勅命で足利義教によって行われたと伝わり、その際麓にもともとあった藤尾社が現藤森神社に遷されました。それが藤森神社の東座ということで、藤森神社にあった真幡寸まはたき神社が玉突きのように現在城南宮のある一画に遷されています。真旗寸神社は社名から想像できるように秦氏に関連する神社です。藤森神社の藤は、かつて周辺に藤が多く咲いていたということもあるでしょうが、こうした経緯から稲荷山の麓の藤尾から遷ってきた藤尾社にも由来するのかもしれません。

藤森神社で五月に行われる藤森祭は、貞観二年(八六〇)摂政藤原良房が清和天皇ご臨幸のもと天皇の長寿や国の安泰を願い執り行われた祭に起源があると言われています。この祭では、藤森神社の御神輿は伏見稲荷大社の鳥居をくぐり、参道脇にある藤森社の祠まで渡御します。神社変遷の歴史が祭の中にも伝えられています。

本殿の西座は、早良親王(桓武天皇の同母弟)が藤原種継の暗殺に関与したとして廃太子され亡くなった際、親王の屋敷があったという東福寺近くの塚本に御霊鎮めのために創建された神社が、東福寺が出来る際に深草に遷され、さらにそこが火災にあったため、文明二年(一四七〇)当地に合祀されたという経緯です。早良親王が生前藤森神社を崇敬していたことから当地が選ばれたようです。ちなみに早良親王と共にお祀りされている伊豫親王と井上内親王も、それぞれ非業の死を遂げていることから、塚本に神社があった時代に合祀されています。

このように藤森神社の御祭神から深草周辺の歴史が違った角度から見えてくるようで興味は尽きませんが、最後に主祭神として中座にお祀りされている素戔嗚尊について少しばかり想像を巡らせてみます。

素戔嗚尊は神仏習合で午頭天皇と同一視された後、明治の神仏分離で切り離されています。藤森神社は近世に藤森天王社と呼ばれていたことがあるので、もしかすると以前は牛頭天王をお祀りしていたのかもしれません。午頭天王は釈迦の生誕地祇園精舎の守護神という渡来神で、平安時代に早良親王の死をきっかけに御霊信仰が広まると、御霊鎮めの神としてお祀りされ、次第にその役割が疫病退散にも拡がっていきました。藤森神社は西座に早良親王を合祀したことで御霊神社としての性格を持つようになりましたので、その流れで午頭天王もお祀りされたのではないかというのが、一つ目の想像です。

さらに想像を膨らませると、川村湊さんが『午頭天王と蘇民将来伝説』で述べているように、午頭天王信仰が播磨の広峯神社から東に遷り、京都の八坂神社に至ったとすると、深草は瀬戸内海から川を伝って京都に至る道筋にありますので、牛頭天王信仰拡大の足跡を示している可能性も考えたくなります。

京都の古社には平安京以前の歴史が数多く堆積しています。藤森神社もその一例でしたが、周辺には伏見稲荷大社もありますので、機会を見つけさらに深草、伏見周辺を歩いてみたいと思っています。

 

 

 

 

遅い梅雨入りで雨の日が多くなりました。紫陽花苑の紫陽花はいまのほうがきれいかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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