古社寺風景

木嶋坐天照御魂神社

新屋坐天照御魂神社はここで取り上げるまでにかなり時間を要しました。木嶋坐天照御魂このしまにますあまてるみたま神社も一筋縄ではいかない歴史を擁していて、いま取り上げるのは時期尚早ではありますが、考えている過程のメモとして書き付けておくことにします。

木嶋坐天照御魂神社が鎮座しているのは京都の太秦です。秦氏が本拠地とした土地で、神社の西五百メートルほどのところには広隆寺があります。もともと広隆寺は現在よりもかなり広い境内を擁していましたので、当社は広隆寺境内の最東端にあったということのようです。

木嶋坐天照御魂神社は蚕の社とも呼ばれています。その由来は本殿の向かって右(東)にお祀りされている蚕養こがい神社にありますが、京福嵐山線の駅名にも使われているように、蚕の社は本来の社名である木嶋坐天照御魂神社より通りが良いようです。蚕養神社はその名の通り養蚕の神さまをお祀りしています。養蚕といえば秦氏、当地が秦氏に縁の土地であることを思うと、ここに秦氏の存在が感じられるのはさもありなんという感じです。

木嶋坐天照御魂神社の現在の御祭神は天之御中主神あまのみなかぬしのかみ大国魂神おおくにたまのかみ、穂々出見命ほほでみのみこと鸕鶿草葺不合尊うがやふきあえずのみこと瓊瓊杵尊ににぎのみことの五柱ですが、『延喜式』神名帳によると一座とあるように、本来は天照御魂神をお祀りする神社だったはずです。江戸時代後期に刊行された『都名所図会』に記された木嶋社のところにも、木島社このしまのやしろは太秦のひがし、森のうちにあり。天照御魂神《あまてらすみむすびのかみ》を祭る。瓊瓊杵尊ににぎのみこと大己貴命おおあなむちのみことは左右にいます。蚕粮社こがいのやしろは本社のひがしにあり。糸・わた・絹を商ふ人、この社を敬す。西のかたわらに清泉あり(世の人元糺といふ。名義は詳ならず。中に三つ組み合はせの石柱きばしらの鳥井あり。老人の安坐する姿を表せしとぞ。当所社司の説。)石の鳥居(八角の柱なり。森の入り口にあり)。…」とあることからも、少なくとも江戸時代までは天照御魂神をお祀りしていたことは間違いなさそうです。

ちなみに、現在お祀りされている天之御中主神は神話において天地開闢の際最初に現れた神。大国魂神は『日本書紀』崇神天皇六年に出てきますが、出自は不明、国土の守護神というのようです。穂々出見命は天孫瓊瓊杵尊と木花開耶姫の御子神である彦火火出見尊のことで、海幸山幸神話では山幸彦と呼ばれます。鸕鶿草葺不合尊は彦火火出見尊の御子神で神武天皇の父にあたります。瓊瓊杵尊は天照大神の御子神・天忍穂耳尊の御子神にあたり、日向に天下ったとされる神、その御子神が先ほども触れた穂々出見命、というように、現在の御祭神は日本神話において神武天皇に通じる神々です。

では本来お祀りされていたはずの天照御魂神はどのような神さまなのかということですが、これが大変難しく現段階ではわかりません。先月投稿した大阪府茨木市にある新屋坐天照御魂神社の御祭神天照御魂神は尾張氏が関係しているのではないかと推測しました。太秦の当社も同様に最初は尾張氏が関係しており、後に秦氏が入ってきて勢力が入れ替わったとする説がある一方で、当社の天照御魂神を対馬にある阿麻氐留あまてる神社の天日神命あめのひのみたまのみこととする説もあり、そうだとすると当社創建に関係したのは尾張氏ではなく対馬氏ということになります。対馬氏も海人族で、太陽信仰を持っていました。

わからないなりに、今とりあえず言うことができるとすれば、実態は不明ながら海人族の移動の流れの一端が当地にも見られ、ある時点で勢力を伸ばしてきた秦氏に入れ替わったということでしょうか。

国史に初めて登場するのは『続日本紀』大宝元年(七〇一)ですが、神社自体はそれ以前からあったようです。飛鳥時代推古天皇の時代に広隆寺が創建されたことに伴い勧進されたという説もありますが、それは秦氏にゆかりの神(蚕養神社)ということではないかと思います。

創建時のことはこのくらいにして、境内の様子に移ります。

太秦の太子道に面して鳥居が立ち、奥に鬱蒼とした樹木に覆われた社殿が見えます。太子道とは、西にある広隆寺の参詣に聖徳太子が通ったとされることに因んでそう呼ばれています。

拝殿の奥に見えるのが本殿で、本殿の向かって右に蚕養神社(写真下)が鎮座しています。

境内は古代と現代を繋ぐ場らしく深閑としています。

 

ところで当社で特異なのは、本殿の左(西)にある三柱鳥居(冒頭の写真)です。

この鳥居周辺の社叢は元糺もとただすの森と呼ばれ、かつて鳥居周辺は池になっていました。現在は水が涸れていますが、土用の丑の日にこの池の水に手足を浸けると諸病に効くと信じられ庶民の信仰を集めていました。嵯峨天皇の時代にそれを賀茂御祖神社(下鴨神社)の糺の森で行うようになったことから、当社が元糺と呼ばれるようになったということのようです。古代における秦氏と賀茂氏の繋がりがその謂われに秘されているように思えます。

 

 

三柱鳥居は上から見ると正三角形になるよう三本の柱で鳥居を組んだもので、中央には石が積まれ、その中心に御幣が立っています。鳥居は神域との境界を示すものですが、この鳥居の周辺は元糺の森で、鳥居の先にあるはずの神域を見つけることはできませんが、この鳥居の謎を解く試みの一つとして、この鳥居の三方向の先には北に双ヶ岡、南東に稲荷山、南西に松尾山があることに着目し、この鳥居はそれらの山々を遙拝するためのものではないかとする説があります。双ヶ岡には古墳があり、立地と規模などから秦氏との関連が言われています。稲荷山と松尾山の麓にはそれぞれ神社があり、これらも秦氏が創建に関わったとされています。

三柱鳥居は珍しいものですが、対馬の和多都美わたつみ神社にも同様の鳥居がありますので、あるいは対馬氏の存在を伝えるものでしょうか。

謎に包まれている分、惹かれるものも多いように感じます。

 

また境内の入り口に近い西には椿丘大明神と刻まれた石標が立ち、その西奥に祠がいくつかあります。

 

狛犬ならぬ狐にお守りされているのでお稲荷さんかと思い鳥居をくぐると、正面突き当たりに覆い屋に囲われた半地下の石室のような石造りの祠があり、奥に白清稲荷大明神がお祀りされています。石には白清社と刻まれています。

ただならぬ雰囲気が感じられ身の引き締まる思いがします。これは当社の南一、五キロほどのところにある天塚あまづか古墳を明治時代に調査した際、発掘されたお稲荷さんをここに遷したらしく、お稲荷さんは再度古墳に戻されていますが、一端遷してお祀りした場所ということで今でもこのように残されているようです。天塚古墳は六世紀前半の前方後円墳で秦氏の古墳と考えられています。

 

秦氏に縁の土地に古くから鎮座する神社ということで、あちらこちらに秦氏の存在が感じられますが、さらに踏み込んで歴史の奥をのぞいてみたいという気持ちに駆られる神社でした。

 

 

 

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