乙訓寺のところで触れたように、長岡京市や向日市、南部の大山崎町の桂川右岸一帯は古代乙訓郡に属していました。今回もそのエリアを乙訓地域と呼ぶことにしますが、乙訓地域は三世紀後半から七世紀後半にかけて四百基あまりの古墳が築かれた一大古墳地帯でした。乙訓古墳群と称されるその古墳群には、首長墓と考えられる規模の大きな古墳が多く、古墳時代初期から後期まで一つの地域内で継続して築かれた点が全国的にも珍しいのだそうです。古墳時代の勢力図を読み解く上で大変重要な古墳であることから、二〇一六年に十一基が国の史跡に指定されています。
乙訓寺周辺にある今里車塚古墳は古墳時代中期、今里大塚古墳は後期のものでした。今回は乙訓寺から北東に一キロほどの向日神社周辺にある古墳時代前期の古墳周辺を歩いてみます。古墳は二つあり、一つは三世紀後半の元稲荷古墳、もう一つは三世紀中頃から後半にかけての五塚原古墳です。
向日神社や元稲荷古墳、五塚原古墳は、西山連峰から南に延びる丘陵(西ノ岡丘陵、向日丘陵、長岡丘陵などと呼ばれ、長岡の地名はこれに由来します)の先端に位置し、最先端の丘は向日山と呼ばれました。あいにく昭和三十六年の名神高速道路工事の際に神社北側の土が削り取られ、五塚原古墳と元稲荷古墳の間の地形が落ち窪んでいますが、元は一続きの丘陵でした。現在は、元稲荷古墳は向日神社境内に続く勝山公園内にあり、五塚原古墳はそこから北に五、六百メートルという位置関係です。
まずは向日神社へ。
向日神社の大鳥居は南北に走る西国街道に面しています。西に向かって延びる参道は二百五十メートルほど。ちょうど桜の季節に訪れたので、参道は満開の桜に覆われていましたが、紅葉も多いので秋もまた見事でしょう。
参道の突き当たりに見えてくるのは舞楽殿。平成になってからの再建です。
舞楽殿の西奥に見えるのが本殿覆屋で、この奥に拝殿、幣殿、本殿が連結しています。現在の社殿はすべて東向きですが、これは江戸時代に再建された際、西国街道を意識してのことだったようで、本来は南向きでした。
正面覆屋の後ろに回り込むと、透塀が建物を取り囲んでいます。上の写真でいうと一番奥、下の写真では一番手前の建物の中に本殿があります。本殿は応永二十九年(一四二二)に上棟されたもので、室町時代の三間社流造の本殿として貴重であることから国の重要文化財に指定されています。ちなみに東京の明治神宮本殿は、向日神社の本殿をモデルに造られたものだそうです。拝殿と幣殿は江戸時代の再建で、こちらは国登録有形文化財です。
この本殿にお祀りされているのは、向日神、火雷神、玉依姫、神武天皇の四柱です。
向日神社は元は向神社(上ノ社)と火雷《ほのいかづち》神社(下ノ社)という別々の神社で、向神社では向日神が、火雷神社では火雷神がそれぞれお祀りされていましたが、鎌倉時代に火雷神社が荒廃したことから向神社に合わせ祀られるようになったといいます。向日神社が奈良時代の養老年間の創建と言われることがあるのは、上ノ社の社殿が改築されたのがその時代だったということで、神々の奉祀はそれ以前からあったのではないでしょうか。
上ノ社でお祀りされていた向日神は、大歳神の御子である御歳神のことです。御歳神が丘に登って向日山と名付け、稲作を奨励しそこに鎮まったことから向日神と呼ばれるようになったとの伝えを持ちますが、そもそも向日とは日に向かうということ、つまり丘陵の南端にあって東から太陽が昇り西に沈むまで日に向かい続けている地勢に由来するのでしょう。
その向日神ですが、向日神社から北西に約六キロ、小塩山中腹にある金蔵寺の創建由来にも登場します。金蔵寺は奈良時代に元正天皇の勅願で隆豊によって開かれたと伝わる寺で、平安京遷都の際には王城鎮護のために都の四方に経典を埋めたと伝わるように西の守りとして大いに発展しましたが、その金蔵寺の始まりに向日明神が関係していたということが「金蔵寺略縁起」にあるそうです。すなわち小塩山山腹に一宇を建立せよとの夢告により隆豊が小塩山を訪ねたところ、弓矢を手にした老翁(向日明神)が現れ、放った矢が楠に当たりそこから光が迸ったので、その木から十一面千手観音像を彫りお祀りしたのが、金蔵寺の始まりということで、残りの三本の矢は大歳神社、角宮神社、向日神社のある場所にそれぞれ落下し各神社が創建されたとのことです。向日神社境内北西に増井神社があるのですが、そこには神水の湧き出る井戸があり、火雷神の荒魂としてお祀りされています。その井戸の水が金蔵寺の湧き水「石井」(「雲生水」とも)と通じていて、石井の水を汲み替えると、増井の水が濁ったと伝わるように、向日神社と小塩山の金蔵寺は古来何らかの繋がりがあったようです。
大歳神は『古事記』において、速須佐之男命と大山津見神の娘・神大市比売との間に生まれた神で、宇迦之御魂神と兄弟神の関係、どちらも穀物神で、大歳神の御子神である御歳神も同様の神格です。
金蔵寺を開いた隆豊という僧は、豊前国の山中で修行をしていた修験僧でした。山中の金蔵寺から放たれた矢が、大歳神社・角宮神社・向日神社に落下し、三社が創建されたという話は、金蔵寺の創建由来なのでそうなるのであって、日に向かう神の名を冠した向日神が小塩山から向日丘陵に伝わったのかどうか、向日神はむしろ丘陵に先に祀られていたのではないかという気がしますが、想像の域を出ません。
ちなみに本殿の北西に役行者をお祀りする岩窟があり、その右上に向日神が影向したという磐座が見えます。
もう一方の火雷神ですが、『古事記』において黄泉国にいる伊弉冉尊から生まれた八つの雷神のうちの一つで、『山城国風土記』逸文では玉依姫が川上から流れてきた丹塗矢(火雷神)を取り上げたために孕み賀茂別雷命を生んだという、賀茂別雷神社(通称上賀茂神社)の由緒に登場するように、賀茂氏の存在がうかがえる神さまです。賀茂氏が大和の葛城から山城盆地に入ったのは五世紀頃と言われますが、向日山に火雷神がお祀りされたのは継体天皇の乙訓宮の頃(五一八年)ではないかとのことです。
このように二柱の由来は異なりますが、向日神は五穀豊穣の神、火雷神は雷神つまり水をもたらす神で、どちらも稲作の守護神です。当地が開かれ稲作が行われるようになった時代、豊作への願いが二柱の奉祀に繋がっていったのだとすると、そうした神々をお祀りしたのは誰だったのか気になります。
ここで一旦神社を離れ、古墳の方に行ってみることにしますが、長くなりますので古墳は次回に。