心に留まった風景

大織冠神社(将軍塚古墳)

今月初めに投稿した阿為神社のところで、高槻市と茨木市にかけて藤原(中臣)鎌足にゆかりの場所がいくつかあると書きました。今回はその続きとして阿為神社から南西一キロ半ほどのところにある大織冠神社に目を向けてみます。

大織冠は大化三年(六四七)に制定された七色十三階冠の制における冠位の中の最上位です。大織冠が授けられたのは鎌足ただ一人です。鎌足は死の前日にあたる天智天皇八年(六六九)十月十五日に天智天皇から大織冠を授けられ、藤原の姓を賜りました。そのため大織冠神社とは鎌足をお祀りしている神社なのだろうということは想像がつきますが、そう話は簡単ではありません。

大織冠神社は追手門大学の西隣にあり、南は家が建ち並ぶ住宅街で、石段のすぐ前まで民家が迫っています。鳥居の奥に長く急な石段が続いているように、ここは丘陵の先端部にあたります。石段をゆっくりと上っていくと、目の前に現れたのは拝殿ではなく古墳の開口部でした。古墳は山頂を利用して築かれた円墳で、そこに横穴式石室が設けられています。六世紀、古墳時代後期のものと考えられるそうです。

実はこの辺りは将軍山古墳群と呼ばれる古墳地帯です。神社の南側は現在住宅街になっていると冒頭に書きましたが、かつてそこには前方後円墳一基、円墳六基がありました。それらは一九六〇年代に宅地開発のためすべて消滅し、唯一残っているのが、大織冠神社としてお祀りされているこの円墳で、消滅した古墳群より一段高い山に築かれています。全体を将軍山古墳群といい、この円墳は将軍塚古墳と名付けられています。

石室は花崗岩で出来ており、玄室は長さ約四、五メートル、幅約一、七メートル、高さ約二、四メートルで、天井石が五枚乗っています。早くから盗掘に遭っていますが、明治時代に活躍した御雇外国人ウィリアム・ゴーランドがこの古墳を調査した際いくつかの遺物を採集しています。それらは写真と共に大英博物館に収められているそうで、ゴーランドの功績は大きいとはいえ、日本でそれを見ることができないのは残念です。

将軍塚古墳は石室の規模からいっても北摂地域の中でもトップクラスで、周辺の最も高い場所に古墳が築かれていることからも、被葬者は当地の盟主であることは間違いなさそうですが、特定にまでは至っていません。

この将軍塚古墳が六世紀のものということですと、鎌足が亡くなったのは六六九年で年代が合いませんから、鎌足の古墳でないことは確かです。

ですが、ここは大織冠神社という社名を冠し、石室の向かって右横には「大織冠鎌足公古廟」と刻まれた石標も立っています。

石標の側面には「裔孫従一位勲一等藤原朝臣道孝」とあります。藤原道孝は幕末から明治初期にかけての公卿九条道孝のことです。九条家は、藤原不比等の後、藤原氏が北家、南家、武家、京家の四家に分かれたうちの北家の嫡流です。この石標は、明治十四年(一八八一)道孝によって建てられた顕彰碑のようなもの。九条家によってここが藤原鎌足の墓とされていたということでしょう。明治まで忌日には九条家の人が参拝していたそうです。

ちなみに現在は阿為神社の管轄で、毎年十月十六日の命日には廟前で祈りが捧げられています。

ではなぜ九条家がここを鎌足の廟としたのでしょうか。

『日本書紀』天智天皇八年十月の条や分註から、鎌足は自宅で亡くなり山の南で殯を営んだことがわかるものの、その場所までは記されていませんが、その後三種類の史料がそれぞれ異なる場所を鎌足の墓所としていることから、三箇所の候補地があります。

一つは鎌足の曾孫藤原仲麻呂が編纂した「大織冠伝」に「葬於山科精舎」とあるように、山科の地です。二つ目は平安時代の『日本三大実録』に「多武峰墓を藤原鎌足の墓とし」とあるように大和の多武峰の地です。三つ目は『多武峯略記』に「定慧和尚は、天智天皇が天下を治める丁卯ひのとう(六六七)、生年二十三にて入唐、天武天皇が天下を治める戊寅つちのえとら(六七八)に帰朝、右大臣(不比等也)に謁え、問いて言わく、大織冠の御墓所みはか何地いずちなる哉、答えて曰く、摂津国嶋下郡阿威山なり」とあるように、摂津国の阿威山あいやまです。

どれもそれぞれの思惑の中で書かれたものです。いまなお鎌足の墓所は確定していませんが、ここ茨木の大織冠神社を鎌足古廟とするに至ったのには、三つ目の『多武峯略記』が関係しているようです。定慧和尚というのは鎌足の長男、不比等の兄にあたります。(定慧は阿為神社に隣接する大念寺の開基に関係しています)その定慧が弟で右大臣の不比等に、鎌足の墓は摂津国の阿威山にあると言わせているということですから、そこに作為を感じるのですが…。

『多武峯略記』は建久八年(一一九七)多武峰寺の静胤によるものと伝わりますが、その時代は九条兼実の時代で、兼実の日記『玉葉』に文治四年(一一八八)に「摂州宿に赴き本所を始む」とあり、その註からそこが安威であることがわかります。目的はわからないけれど兼実は安威を訪れています。そして『藤原鎌足と阿武山古墳』によると『多武峯略記』を編纂した静胤は兼実と昵懇の仲だったようで、兼実は鎌足の墓は摂津の阿威山にあるという北家に伝わる話を、『多武峯略記』において定慧の言葉として静胤に書かせたという可能性が考えられるのではないか、また平安時代の『日本三大実録』に鎌足の墓は多武峰とあることから、実際多武峰に墓を作ろうともしたということではないか、とのことです。摂津国の阿威山は、具体的にどの山なのかはわかりませんが、阿為神社のところでも触れたように、安威川流域の古代に藍野と呼ばれた一帯が阿威ですから、その阿威にある山ということで将軍塚古墳に行き当たり、これが鎌足の墓だろうということになり(して)、ここを鎌足古廟として代々九条家がお祀りしてきた、そんな流れが想像できます。

ちなみに一般に鎌足の墓所として知られるのは『日本三大実録』にある奈良県桜井市多武峰で、談山神社にある有名な十三重塔は摂津の阿威山から当地に鎌足の墓を移した際に建てられたものと言われています。

 

人の思惑で歴史に手が加えられていく一つの例ですが、昭和初期にここから北東に三キロほど、高槻市の阿武山から被葬者が鎌足ではないかと思わせる遺物が出てきました。阿武山古墳といって一時は新聞一面を飾った世紀の大発見ですが、この古墳も複雑な歴史を辿ることになってしまいました。専門家や古代史ファン、地元の人をのぞいてどれだけの人が阿武山古墳といってすぐにわかるでしょう。もちろん私も知りませんでしたが、阿為神社に始まり、鎌足の足跡を追っていくうちに阿武山古墳を訪れる機会を持ち、またそれに関連する資料などを読み、連日感嘆と悲嘆の声を交互にあげているような状態です。歴史的に重要なことがらでも、すべてが常に日の当たる場所にあるとは限らず、埋もれ、忘れ去られ、朽ちていくものもありますが、長い時を経てまた表に浮かび上がってくることもあります。歴史は常に積み重なり層を厚くしていきますが、積み上がった本をときどき入れ替えるように、たまには下に埋もれていたものを上に引き上げ、人の目に触れさせ、記憶に刻み直す作業というのは必要だと思っています。

ということで、次回は阿武山古墳へ。

 

ちなみに、将軍塚古墳の横で柵に囲われているこちらは、現在地の南にかつてあった前方後円墳の竪穴式石槨を移築復元したものですが、現地ではその説明が不足しているうえに、四角くコンクリートで固められたその場所は落ち葉に覆われて、何があるのかよくわかりませんでした。消滅してしまった前方後円墳は墳丘の長さ約一〇七メートル、三段築成で、古墳時代前期中葉、四世紀中頃のものと考えられるそうです。斜面には葺石が施され、墳頂やテラスには多くの埴輪が並べられていたとか。また阿為神社で所蔵されている三角縁唐草文帯二神二獣鏡は将軍山古墳から出土したものの可能性があるそうです。

 

 

 

 

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