冬になると琵琶湖に多くの渡り鳥がやってきます。中でもコハクチョウを見るのが毎冬の楽しみになっていますが、最近は湖北まで行かないと見られないようになってしまいました。下の写真は十二月半ばの湖北野鳥センター付近の様子です。ほんの数羽でしたが、湖に頭を突っ込んで餌を食べている様子を目にすることができました。
ところでさざなみ街道と呼ばれる湖岸道路は、この先北に一キロほどのところで湖から離れ、大きく東にカーブしたトンネルに入ります。それは湖岸すれすれに山が迫っているためで、さざなみ街道はトンネルを抜けると山並の東に移り、平野を流れる余呉川に沿ってさらに北に向かいます。こちらの地図をご覧いただくと、その様子がよくわかると思います。
湖岸に連なる山並は古保利丘陵と呼ばれますが、実はここには前方後円墳八基、前方後方墳八基、円墳七九基、方墳三七基、合計一三二基で構成される古保利古墳群(国指定史跡)が築かれています。時代は古墳時代の初めから終末期までと幅広く、かなりまとまった数の古墳が良好な状態に保たれています。琵琶湖の際すれすれのところに連なる丘陵に築かれた古墳で、琵琶湖からしか望むことのできないものもあるといいますから、被葬者は琵琶湖の水運と深い関わりを持つ人物だったのでしょう。興味が尽きませんが古保利古墳群はについては機会を改めて取り上げることにして、今回は古保利丘陵と余呉川に挟まれた西野の集落で江戸時代後期に人の手で掘られた西野水道のことです。
大雨が降ると蛇行する余呉川の堤防が決壊し、流れ出た水は湖岸沿いに連なる古保利丘陵に阻まれて行き場を失い、西野周辺が冠水しました。農地が冠水すれば農作物が実らず、村は飢饉に襲われます。天明三年(一七八三)、天明七年(一七八七)、文化四年(一八〇七)と大洪水が続いたことで、西野は壊滅的な打撃を被りました。
そうした状況を見てきた充満寺の住職西野恵荘が、余呉川の水を琵琶湖に流す放水路を造らなければと意を決して村人を説得し、彦根藩の許可と援助を取り付け、天保十一年(一八四〇)能登から石工を招いて工事に取りかかりました。当時は現在のような計測機器も掘削機器もありませんので、磁石や水準器で方向や勾配を調整し、鑿と金槌で少しずつ掘り進めていくしかありませんでした。途中何度も硬い岩盤に阻まれ、石工たちは断念して国に帰ってしまったため、今度は伊勢から別の石工を招いて工事を再開、硬い岩盤を熱して破砕するなど三年間休みなく掘り進めていった結果、弘化二年(一八四五)穴が貫通し、念願の水道が完成しました。
こちらが江戸時代の西野水道です。もう少し奥に行けば、鑿の跡が見えるはずです。
高さは約一、五メートル、幅約一、三メートル、全長約二二五メートル。人一人通るのがやっとですが、この水道を掘り抜くために、延べ人数にして、五二八九人の石工、三五〇〇人の村の人足が日々力を尽くし、他村や彦根藩からも千五百人近い助けが入っています。総工事費は一二七五両。現在のお金にしてどのくらいでしょうか…、江戸時代の通過換算アプリを使ってみると一億二千万円以上になります。それを百戸ほどの西野が負担しました。大変な難工事でしたが、これにより住民たちの暮らしが守られたことは言うまでもありません。
西野水道を造った西野恵荘は充満寺の第十一代住職にあたりますが、充満寺は西野の集落にある真宗大谷派のお寺です。大友皇子の孫宗信法師の開基と伝わり、元は泉明寺といって天台宗でした。その後荒廃し最澄によって再興されるも、戦国時代の戦禍で再び荒廃、江戸時代に入り真宗大谷派に改修し充満寺となりました。ちなみに充満寺というと、西野薬師観音堂にお祀りされている薬師如来像と十一面観音像で知られます。湖北の観音巡りのコースにも入っていますので、行かれたことのある方もいらっしゃるでしょう。
江戸時代の西野水道に入るには、ヘルメットに長靴、懐中電灯が必要です。管理事務所に貸し出し用のヘルメットなどが置かれていますが、感染症が騒がれている今、自分のもののほうがいいですし、ひんやりした洞窟内は夏のほうがよさそうですので、今回は装備不足ということで諦め、江戸時代の西野水道のすぐ南に昭和二十五年に造られた放水路を歩いてみました。
こちらが昭和の放水路、現在こちらも使われていません。
江戸時代の水道は、入り口に立っても出口が見えませんでしたが、こちらはご覧の通り。トンネルを抜けると琵琶湖に出ます。
竹生島を望む湖北の琵琶湖。静かで穏やかで、心が洗われるようです。
トンネルを抜け湖岸から振り返ると、古保利丘陵に三つ目の放水路が。こちらは昭和五十五年に完成したもので、現役の放水路です。
気候のよいときは釣りに訪れる人も多いようですが、いまの時期は釣り人も少なく、湖畔は静まりかえっていました。