前回に続き、淀川右岸の三島野に残る遺跡へ。新池埴輪製作遺跡から直線距離にして東に四、五キロほど、JR京都線と阪急京都線に挟まれた高槻市八丁畷町に弥生時代の大環濠集落遺跡「安満遺跡」があります。
大阪から京都方面に向かう電車に乗っていると、阪急なら高槻市駅、JRなら高槻駅を過ぎてほどなく窓外の景色が開け、広大な空き地の中に、ぽつんと赤い屋根の建物が見える風景をご記憶の方もいると思います。そこが安満遺跡です。
JRと阪急の線路に挟まれたその一帯は、二〇一四年まで京都大学大学院農学研究科附属の農場だったところで、赤い屋根の建物は研究棟でした。京大の農場が造られたのは一九二八年、実習農場として農作物を中心に様々な植物が栽培されてきましたが、二〇一二年に農場移転が決まり、二〇一四年には農地の一部が高槻市に譲渡され、京大の農場はその後木津に移りました。
遺跡が最初に発見されたのは、農場建設と同じ一九二八年です。農場灌漑用水溝の掘削中、大量の土器や石器が出土、その後の調査により弥生文化が西から近畿地方に伝わったことが示され、注目を集めました。さらに一九六〇年代から七〇年代には、周辺の宅地開発や農場内の調査の際に、環濠や農具、条里制の遺構などが見つかり、弥生時代の集落跡の様子が次第に明らかになっていきました。最終的に、安満遺跡は縄文時代晩期から鎌倉時代までの遺構を含む、弥生時代から古墳時代前期を中心とした複合遺跡ということになっています。一九九三年には農場北の民有地が史跡の指定を受け、さらに二〇一一年には農場内も追加で史跡の指定を受けています。
安満遺跡の総面積は約七十二万平方メートル。居住域、生産域、墓域から成り、弥生時代の暮らしを知る大変貴重な遺跡です。その大部分が、京大の農場があったことによって、開発を免れ、広大な土地が守られたことになります。
高槻市に譲渡された土地がその後どうなったかというと、安満遺跡公園として整備され、今年の三月に全面が開園しました。
公園として開放されている安満遺跡公園には、イベントスペースやレストラン、カフェ、ドッグランなどがあり、子供連れの家族が安心して過ごせるとあって、休日ともなると大勢の人で賑わっています。広大なスペースで、密にならずに遊べるので、いまのご時世には打ってつけです。京大の農場だった時代には、一般市民にも多少開かれていたとはいえ、植物に関心がなければそこに足を運ぶことはなかったでしょうから、その点では現在の公園は門戸を開いたという点で成功しています。歴史に関心のない人でも、公園にやってくれば安満遺跡という名前を目にすることになり、腰掛けに使われている囲いが、弥生時代の環濠跡を示すものであることを、何パーセントかの人は気づきます。弥生時代、ここに集落があって、近畿地方でも先駆けて米作りが行われたのだということが少しでも認知される。いつも電車から見えていたあの場所は、そういう所だったのかと思う人が少しでも増えれば、この計画は成功と言えるのでしょう。
ただ欲を言えば、もう少し具体的に集落の様子がわかるように再現されているとよかったと思います。
丁寧に歩いていけば、要所要所に表示があり、そこがかつて田圃だったとか、墓地であったとか、環濠の内側に集落があったとか、わかるようになってはいますが、広大な敷地にあってはインパクトに欠けます。京大時代の建物を残す必要もあって、そうした建物との兼ね合いもあったでしょうが、たとえば高床式倉庫や竪穴住居などが再現展示されていると、格段に弥生時代への理解が深まるなと。京大の農場時代の建物を残すのと同時に、弥生時代の暮らしを再現したものがあったら、二五〇〇年前から現代までの繋がりが一層はっきり感じられ、それこそ弥生時代と現代が融合しておもしろいと思うのですが。
冒頭と下の写真に見える赤い屋根の建物が、京大の農場時代の建物です、正面の建物が本館で、現在は展示室と休憩室、レストランとして使われています。右の建物が展示館。左は体験館になっています。弥生時代の環濠は、これらの建物の周りを巡っていました。
環濠の南側、上の写真でいうと手前方向が生産域で、水田がありました。当寺の様子を再現すべく古代米が植えられています。発見された水田跡からは、弥生人の足跡がいくつも見つかったそうです。
こちらは井堰と用水路の跡だそうですが、私にはどうも具体的なイメージがわきません。
環濠の東奥に進むと墓域だったエリアに入ります。
下は方形周溝墓。家族ごとに造られたのだそうです。
実際に訪れた私ですら弥生時代の環濠集落のイメージがつかめませんでしたので、いらしたことのない方はなおさらでしょう。最後に当時の様子を再現したイラストを。
環濠集落のすぐ北には縄文人が暮らしていました。その生活圏に弥生人が入り、両者が融合し協力しあって、米作りを中心とした集落が形成されていったのです。
これを見れば当時の様子がとてもよくわかります。このイラストにも見えるように、安満遺跡の環濠集落は淀川の水運に支えられていました。より厳密にいえば、淀川の支流桧尾川ですが、集落での生活に必要な土器や石器、石などは淀川と桧尾川を通じ、安満遺跡の集落に運ばれました。
ちなみに淀川の水運から、安満の「あま」は古代の海人族から来ているのではないかと思い巡らせています。