前回投稿した今城塚古墳が造られた場所は高槻市の淀川右岸ですが、この辺りは律令制の時代三嶋郡だったことから、三島地方とか三島野と呼ばれることもあります。西は千里山丘陵、東は天王山までの範囲で、高槻市のほか茨木市、吹田市、摂津市、島本町、箕面市の一部も含まれます。古墳地帯というと、大阪南部の古市、百舌鳥古墳群が筆頭にあげられますが、三島野も個々の古墳の規模こそそれらには及ばないものの、数の点では引けを取らず、今城塚古墳をはじめ、宮内庁が継体天皇陵としている太田茶臼山古墳、上宮天満宮に近い昼神車塚古墳、阿武山古墳、安満宮山古墳など、古墳時代の前期から後期まで大小約三五〇基もの古墳を擁する古墳地帯です。
これらの古墳のおそよ三分の一が埴輪を有していたことがわかっているのですが、その埴輪を製作した工場が今城塚古墳から北西に一、二キロほどの高槻市土室の丘陵地帯にありました。
新池という池に隣接した東の斜面にあることから、新池埴輪製作遺跡といいます。最初の発見は昭和二十七年(一九五二)。昭和の終わりになって周辺を宅地開発することになった際、本格的な調査が行われ、少しずつ遺跡の全容が明らかになりました。多数の埴輪片、三棟の大型埴輪工房と十八基の埴輪窯、工人たちの集落遺跡などが見つかりましたが、そうした古墳時代の遺跡ばかりか旧石器時代から近世に至る遺物も発見されています。
埴輪の製作工場は、五世紀半ば頃太田茶臼山古墳の造営に伴って開かれたと考えられています。最初は窯三基、工房三棟、住居七棟の規模でしたが、六世紀に造営された今城塚古墳のため大量の埴輪が必要となり、工場の規模も拡大しました。今城塚古墳の埴輪製作の際には、竪穴式住居で職住一体となって埴輪を製作したようです。
冒頭の写真は、十八基の埴輪窯のうち二基を復元したもので、これらに並行するもう一基は発掘中の状態を再現しています。
また「ハニワ工場館」とある覆屋のある下の建物内には、新池埴輪製作遺跡最大の窯がそのままの状態で保存されています。
長さは八メートル以上、幅は二、五メートルほど。焼け焦げた跡が残り、圧倒されます。
上は工場館を上から見たところ。丘陵地帯の急斜面を利用して造られたことがよくわかります。
上は三棟あった大型埴輪工房の跡。八十畳ほどの広さです。下は大型埴輪工房を復元したものです。
古墳時代の埴輪に関する遺跡の数々は、予想を上回るもので、全国各地で発見された埴輪の製作工場にあって、天皇陵の埴輪を製作した工場の様子がわかるのはここだけだそうです。平成三年には「今城塚古墳 附 新池埴輪製作遺跡」として国の史跡になり、平成六年に「ハニワ工場公園」として整備され現在に至っています。
なおこの場所からは七世紀の集落跡も見つかっていて、そこからは新羅の土器も出土したそうです。『日本書紀』欽明天皇二十三年のところに、任那を滅ぼした後倭国に住み着いた新羅人について、「今の摂津国の三島郡の埴廬の新羅人の先祖なり」とありますが、ここに見える三島郡の埴廬は当地のことではないか、ここから出土した新羅土器はそれを裏付けるものではないかと言われています。
そういえば当地の地名は土室で、「はむろ」と読みますが、埴廬との繋がりを思わせもします。
上は今城塚古代歴史館に展示されている、新池埴輪製作遺跡から出土した埴輪、下は今城塚古墳から出土した家形埴輪など。
この場所でこれらの埴輪製作に従事した工人たちの姿を思い浮かべるのは楽しいものです。