数年前、大阪の池田市にある逸翁美術館で、呉春の筆による白梅図屏風を見ました。屏風は六曲一双。細い枝がしなやかに、また複雑に天に向かって伸び、雪を散らしたように白梅が咲いているというもので、白梅の凜とした姿がしみじみと心に沁みたことが思い出されます。呉春は江戸中期に活躍した京都四条派の絵師です。生まれは京都、蕪村の内弟子として俳諧や南画を学びますが、二十九歳のときに妻と父を相次いで亡くし剃髪、蕪村門下の商人を頼って池田に身を寄せました。池田は古く織物の技術が伝えられたことから呉服の里と呼ばれていました。そこで新春を過ごしたことにちなみ、「呉春」という画号を名乗るようになったそうです。呉春はその後京都に戻り、蕪村亡き後は円山応挙に接近し、円山派風の作品を生むようになります。応挙亡き後は四条派として京都画壇を牽引、文化八年(一八一一)六十歳で永眠しました。
その呉春のお墓が京都一乗寺の金福寺にあります。墓参も兼ねてお寺を訪ねました。
一乗寺というのは、京都の北東部、比叡山山麓の地名ですが、平安時代から南北朝時代にかけて一乗寺という天台宗のお寺が存在しており、地名はそこから来ています。周辺にはかつて存在した一乗寺同様に天台宗の寺が多かったようです。現在では一乗寺というと曼殊院や詩仙堂が思い浮かびます。今回訪ねた金福寺は、曼殊院や詩仙堂の南にあり、東の山に向かって七百メートルほど行くと、以前投稿した貍谷山不動院という位置関係です。
金福寺の創建は平安時代。貞観六年(八六四)慈覚大師円仁の遺志により、円仁自作の観音像を御本尊に安恵僧都が創建したと伝わり、はじめは天台宗でしたが、後に荒廃し、江戸の中期に圓光寺の鉄舟和尚により再興され、以後圓光寺の末寺として臨済宗南禅寺派のお寺となり、現在に至っています。ちなみに圓光寺は、金福寺の北約四百メートルほどのところにあります。徳川家康が慶長六年(一六〇一)国内教学発展のために、足利学校の第九代学頭を招き、伏見に建立したことに始まり、一乗寺には寛文七年(一六六七)に移っています。
こちらの門をくぐると、左に本堂がありますが、飛び石伝いに庭に足を踏み入れると、まず眼に飛び込んでくるのが冒頭の光景です。
金福寺は庭が大変印象的ですので、先に庭園へ。
冒頭の写真や下の写真からイメージいただけるかと思いますが、この庭は建物から見るよりも、庭に足を踏み入れてすぐの、冒頭の写真の位置が最も美しく感じられます。白砂の海に流れ落ちるような皐月、その上には茅葺きの芭蕉庵、それらを樹木が包み込むように繁っています。春ならそこに皐月の色が、秋なら芭蕉庵の後ろから深紅の紅葉が屋根に覆い被さり、冬に雪が降れば皐月の庭は雪玉が雪崩れるようになります。四季折々の変化と、立体感溢れる造形の変化が見事に合い、いつまでも眺めていたくなります。お寺によると、作庭は江戸時代中期だそうです。
庭をまわりこみ石段を上っていくと、芭蕉庵の前に出ます。
俳聖松尾芭蕉は、金福寺を再興した鉄舟和尚と親しかったことから、吟行で京都を訪れた際当寺に立ち寄り、風雅を語り合ったと言われます。その際親交を深めた草庵を和尚は芭蕉庵と名付け、後々まで芭蕉を偲んだとのことですが、時代の移り変わりと共に荒廃してしまいます。安永年間(一七七二~一七八一)、芭蕉を敬慕していた与謝野蕪村が当寺を訪れた際、荒廃した草庵を見て再興を決意、荒廃から七十年ほどの時を経て芭蕉庵が甦りました。それが現在の芭蕉庵です。
蕪村は芭蕉庵再興に寄せて俳文「洛東芭蕉庵再興記」を記して当寺に納めたそうです。
庵落成の日、蕪村はここで次の句を詠んだとのこと。
耳目肺腸 ここに玉巻く芭蕉庵
お寺のパンフレットによると、句意は次の通り。
「蕉翁の開かれた蕉風俳諧を尊敬するわれらの身も心も、この芭蕉庵に籠められていて、玉巻く芭蕉が、やがて広葉をひらくように、同志たちの俳諧の将来も洋々たるものがあろう」
再興できた喜びが伝わってきます。
芭蕉庵の近くには、当寺で詠まれたという芭蕉の句碑があります。
うき我をさびしがらせよ閑古鳥
こちらは蕪村らによって建立された芭蕉の碑。越前藩の儒者による撰文が刻まれています。蕪村はこの碑が完成したとき、「我も死して碑に辺せむ彼尾花」(私も死後この碑のほとりで永眠したい)と詠んだことから、蕪村はこの碑の後ろの丘で眠っています。
丘とはいえ、途中からの眺めはこのような感じで、京都の町が一望できます。
蕪村のお墓は丘を登り詰めたところにあります。隣には蕪村の高弟江森月居のお墓。
さて、冒頭で触れたように、金福寺を訪ねるきっかけとなった呉春のお墓は、蕪村のお墓の向かって左奥です。呉月渓とある右が呉春、左は弟の景文のお墓です。景文も四条派の画家として活躍し、御所の襖絵など数々の名作を残しています。
呉春は没後大通寺に葬られましたが、大通寺が荒廃したことから、明治二十二年(一八八九)に四条派の絵師たちによって当寺に移され、蕪村のお墓に並ぶように墓石が置かれたそうです。
芭蕉から蕪村、蕪村から呉春へ。俳諧における敬慕の念が、ここに集まったかのようです。
ところでこれらのお墓がある丘の頂上に来る途中で、村上たかの参り墓もありました。
村上たかは文化六年(一八〇九)近江国の多賀大社の生まれで、井伊直弼が進める開国政策を助けるべくスパイとして反幕府勢力の情報を流し、安政の大獄に荷担。直弼が桜田門外の変で暗殺されると、たかも捕らえられますが、女性ということで命は助けられ、文久2年(一八六二)金福寺で出家し、六十七歳で亡くなるまで尼僧として当寺で過ごしました。たかのお墓(埋墓)は圓光寺にありますが、そうした縁で当寺には参り墓があります。
たかは九死に一生を得て金福寺で最晩年を過ごすことができたことから、山門横に弁財天をお祀りし、自身の守護神として信仰を寄せたそうです。
たかは巳年の生まれ。弁財天は巳を使いとするとされています。そのため、巳の年(明治二年)に弁財天をお祀りしたとのことです。
最後になりましたが、簡単に本堂のことを。
本堂には御本尊の聖観音像がお祀りされていますが、それ以外に当寺にゆかりのある蕪村や村上たかのゆかりの品々が多数展示されています。先に触れた蕪村の「洛東芭蕉庵再興記」や遺愛の硯箱に文台、蕪村筆による芭蕉翁像からは、俳諧を通じた芭蕉と蕪村の時空を超えた心の繋がりが見えるようで、小さなお寺ではありますが、幾人幾時代の痕跡が残り、一つ一つが深く心に刻まれました。
最後にもう一つ。庭に入ってすぐのところにあるこちらの句碑は、当寺で蕪村の百回忌が営まれた際、蕪村の門弟だった寺村百池の孫、百僊によって建てられたものだそうです。ここにも時空を超えた俳諧を通じた繋がりを見ました。
右は蕪村の句。左は百池の句。
花守は野守に劣る今日の月 蕪村
西と見て日は入りにけり春の海 百池